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真逆の血の子ども

 物事は因果関係では測れない。
 あの加害者は過去に両親が離婚をしていてだとか、こう考えられるのは昔いじめられたからなんですよだとか。違う。そう考えられるのは君が優しいからだ。
 物事は直線的で単純ではなくて、もっと多角的で複雑。
 いかにもな原因があっても、うまくやってるところだってある。不祥事後に脱退も解散もしなかったバンドだってある。
 うまくやっているからニュースにならないだけだ。

 他人にとってはなんてことなかった人が、自分を変えてくれた恩師だったりする。その人に出会った全員が君のようになるわけじゃない。
 君だけが、その人を理由にできたんだ。

 だから、絶対的な原因なんてない。
 みたいなことを考えられるようになったのには、実は原因があった。


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 中1のときの吹奏楽部顧問、坂田先生にはカリスマ性があった。
 人情深く、声が大きく、見逃さず、見捨てなかった。
 坂田先生赴任以前の僕の母校は、廊下をバイクが走っていたと言われるほど荒れていたらしい。坂田先生はそれを承知で赴任して、学校をガラッと変えた。僕が入学する頃にはもう、部員以外からも飛びつかれるほど愛されていた。
 部活以外では怒らないと坂田先生は決めていたから、部活では怒号を飛ばすこともあった。
 とにかく音を出せ。感情を出せ。
 合奏中に音程の合ってないパートがあると「全然合ってねえよ。合わせてこい!」と叫んで、「はい!」と返事をした部員がチューナーを持って音楽室の外へ駆けていくシーンなど何度もあった。
 ドレミファソと音階の上がるメロディは、感情の高ぶりを表しているんだ。だから譜面に書いてなくてもクレッシェンド、音を大きくするんだ。
 夏のコンクールに向けた練習中には「先輩たちは舞台袖でわんわん泣くんだ」と教えてくれた。「でもな、それでいいんだ。持てる感情は全部出してこい」と言われ、当日は僕も泣くように頑張った。

 吹奏楽のコンクールの金銀銅賞は、上位3校だけに与えられるわけではない。
 どの学校も金銀銅のどれかを受賞して、金賞校の中から数校が予選を突破する。そして県大会、全国大会と進むシステムだった。
 坂田先生はこの学校で全国まで行ったことのある先生。僕らのような学校は金賞は当然として、県大会進出を最低目標としているものだった。
 でもこの年のコンクールはいわゆるダメ金。県大会には進めなかった。あちこちで先輩たちが悔し涙を流し、僕も確か泣いた気がする。
 それでも、冬にある少人数制のアンサンブルコンテストは、先輩たちが全国に行った。


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 先輩たちは親しみを込めて「坂田」や「あのハゲ」と呼び、当然それは僕の同級生にもうつった。僕は真面目でそういうのはできなかったけど、ヤンキーを束ねてきたような坂田先生はむしろそのほうが好みだったかもしれない。
 その「坂田」から春休みに突然呼び出しがあった。練習がない日だった。
 例のないことに先輩たちは「ねーなんなの今日?」「まさか坂田辞めるとか言わないよね」とざわついた。そしてその予感は的中する。
「教育委員会に入ることになった。もう先生ではなくなる」
 音楽室に入るなり、いつもの指揮者の位置で、みんなに囲まれて坂田先生は言った。
「はあ?」「まじ?」という反応だった先輩からは、徐々にすすり泣く声が聞こえてくる。
「もう指揮をすることもないだろうな。指揮をしたのはお前らで最後だ」
 そう言う頃にはもう、部員全員が泣く事態となった。

 吹奏楽では顧問の力が絶対だ。
 金賞を取れるかどうかは僕らがすごいかどうかじゃない。顧問に力があるかどうかだ。
 野球などの運動部なら、監督やコーチがダメでも外にはいくらでもお手本がある。プロの動きはテレビで学べる。記録は基本、数字で比較できる。
 だけど音楽には数字がない。判断する「耳」が育たなければ、どの演奏がいいかどうかも分からない。
 運動部でも監督が変われば成績は変わる。外に見本を見出しにくい吹奏楽部は、それ以上に顧問が大きな影響力を持ってしまう。顧問の力が絶対になる。ちょっと気持ち悪いと言われるほど、若干宗教っぽくなるのも事実だ。
 あの日僕らが声を出して泣いていたのは、神を失うからだった。
 だけどそのときには気づいていない。絶対とは、外から見て「絶対」だから。
 そして、神を失うということと『違う神が来る』ということがが全くの別物だということにも、当然誰も気づいていなかった。


 部員たちが少し落ち着くと、とてもめずらしいことに、坂田先生は次に来る先生の紹介をしていった。
「次の先生はな、村上先生といってすごい先生なんだ。全国に3回も行ったことがある。俺は1回。公立で3回も全国に行くことがどれだけすごいことか、お前たちには分かるだろ? 坂田はこうだったとか言うんじゃないぞ。頼むな。村上先生の話をしっかり聞いて、お前ら頑張れ」
 なんでこんなことを言うのか当時は分からなかった。今はもちろん分かる。坂田先生はこの後の出来事を予測していたんだろう。しかしおそらく、事態は坂田先生の予測を大きく上回ることになる。
 吹奏楽の指導なんて興味のない、ぼけっとした先生ならまだ良かったんだ。それなら自分たちの、「坂田」のやり方を通せたから。

「準備室に村上先生の全国のビデオがあるはずだから見ておくといい」
 そう言われて探して見たものの、認めたくないという思いと、全国3回という事実が拮抗して、みんな「ふーん」という感想になった。


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 そして起こったのが暴動だ。
 部員がどかどかと辞めていった。

 新しく来た村上先生は冷静な人だった。
 周りの音をよく聴け。ハーモニーを美しくしろ。
 数ミリ単位の繊細なハーモニーの作り方はそのとき初めて教わった。お前たちはフォルテ、強い音は得意だけど、小さな音は苦手だなと言った。
 合奏の仕方も少しずつ矯正された。
「お前たちはどうして、音程が合ってないと外に走っていくんだ」
「音程を合わせるためです!」部員の誰かがそう答えるとすかさず言われた。
「そんなことをしたら、楽器が危ないだろ」

 ドレミファソと音階が上がるメロディは、高い音のほうが耳に届きやすくて勝手に音が大きくなって聞こえるんだ。だから譜面に書いてなくてもデクレッシェンド、音を小さくするんだ。
 去年まではコンクールの舞台袖で大泣きしていたと聞くと村上先生は「泣くと呼吸が乱れるぞ」と言った。

 人間味を大事にしていた坂田先生とのコントラストで、美しさにこだわり笑顔も多くない村上先生は、音楽至上主義に映った。
 部員以外の全員から好かれるようなタイプの先生ではなかったけど、何より部員に嫌われた。先輩と同級生たちは、親しみを込めた「坂田」とは違ったトーンで「村上」と呼び捨てにした。入ってきたばかりの1年には当然、敬語を徹底させながら。

 そして1、2ヶ月経った頃から、毎週のように数人ずつ辞めていった。
 アンサンブルで全国に行ったエーストランペッターも、数人だけだった男子の同級生も辞めた。唯一の同じ楽器だった先輩も、僕には何も言わずに辞めてった。
 みんな行かないんなら俺も打ち上げ行くのやめるわ、みたいなノリで、止めようがなかった。誰かが辞めると言い出せば、それまでだったら、話し合いが何度も設けられたのに。
 夏のコンクールまであと2ヶ月だった。あとたったの2ヶ月だった。
 そうした先生への反発、先輩の暴動、後輩への指導をクリアしつつ、毎日毎日練習した。迎えたコンクール、結果は銀賞。銀賞。
 銀賞ってあったんだ。僕らみたいな学校は、もらわないもんだと思ってた。

 そして引退式。
 コンクール後のこの式で、先輩たちが次の部長を含む幹部を任命してから引退する、というのが坂田先生の頃からの伝統だった。
 ところがこの年は話し合いが長引いたらしく、引退式のスタートが遅れた。
 数十分遅れで始まった式がいよいよ任命の時間になったとき、先輩たちは不満顔で「村上に阻止された」と言った。1、2年生はきょとんとしたまま、それとなく写真撮影にもつれ込んで閉式となった。
 だけど、その理由に僕はピンときていた。

 1年次に副部長に任命されていた僕は、引退式の時点で1、2年の中では最高幹部だった。僕は変わらず頑張っていたし、早い段階で「このままじゃもったいない」と村上先生の話にも耳を傾けるようになっていた。
 だけど、コンクール前の散々なトラブルの中で、僕の返事が最近小さいということを指摘された。そのせいで僕への評価が落ちていて、代わりに返事の大きな、ヤンキー気質の同級生が評価を上げていた。だからだ。
 おそらく先輩たちは、その返事の大きな同級生を部長に、他の幹部も僕以外にするつもりだったんだろう。それを村上先生が阻止した。
 僕も予想していたけど、そのあとその部長候補はトラブルを起こしまくった。その同級生しかパートに先輩のいない、泣いている後輩を何度もなぐさめた。

 僕の返事が小さくなった理由は、1年生のとき、アンサンブルコンテストで全国へ向けた練習をしていた先輩たちの様子を、坂田先生から合奏中に聞いたからだった。
「あいつら、もう返事もできないほど集中してるぞ」
 だから闇雲に大声で返事をすることが正解じゃないかもしれないと考え始めていたからだ。僕だって坂田先生が大好きだった。


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 そして最高幹部が副部長のまま冬になった。
 1月のある土曜日、練習中に村上先生に呼び出されて、初めて入る何らかの準備室で、初めて向かい合いで座った。
「そろそろこの辺で、安原を部長にしようと思う」
 すでにそういう動きをしていたから、特別な驚きはなかった。それよりも、その後に初めて、ゆっくり話をしてくれたことのほうが印象に残ってる。
 覚えてるのは見回りの話だ。

 吹奏楽部には、練習で各教室を使わせてもらう代わりに、部活が終わると全教室、全廊下、全トイレの窓の鍵をチェックして帰るという仕事があった。坂田先生の頃からこれは1年の仕事だ。
「なあ安原、見回りのことだけどな」
「え、はい」
 練習の仕方がどうだとか、あのパートがちょっとやばいなとかではなく、見回りの話が村上先生から出たこと自体が意外だった。
「見回りっていうのは、もし何かの間違いがあれば泥棒に入られるかもしれないよな。そしたら楽器が盗まれるかもしれない。結果的に部活停止なんてことにもなるかもしれない」
「‥‥確かに、そうですね」
「そういう大事な仕事を、お前たちは後輩に任せるのか」

 なんて言ったらいいんだろう。このときの衝撃を。
 身体の内側がボンっと爆発したような、世界が上下にグルンと回ったような、いやそんな取ってつけたような比喩では全然足りない気がする。
 とにかく叫びたい気持ちだった。大声を出したかった。

 たくさんあるんだ。
 本当はもっとフランクな「たくさんあんじゃん」という言葉が、体の中で跳ね返り続けた。たくさんあんじゃん。
 村上先生が今言ったことが間違ってるとは思えなかった。でも坂田先生が間違ってたとも思えなかった。
 たくさんあんじゃん。正解ってたくさんあんじゃん。いくつもあんじゃん。
 めまいがしそうな衝撃だった。そのただの見回りの話が、僕のその後の思考の明らかな因だ。

 もともと優しいほうだったと思う。
 僕らの吹奏楽部には少なくなかった女子同士のなかなか面倒なトラブルの、そのどちらの言い分もなるべく聞こうとしてきた。辞めたがってる人を頭ごなしに否定はしてこなかった。
 どっちが正しいか、どっちが間違いかということを、ずっと考えてた気がする。
 それがたまたま、見回りの話の一滴で溢れただけ。
 思い返せば、クレッシェンドとデクレッシェンドの話だって、どっちも正解だった。


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 中3になり、部の演奏力はドン底まで落ちた。
 同級生は1ケタの人数になり、2年生は10数人。県大会へ繋がる部門に出るには50人近くの部員が必要で、勧誘に力をいれまくり30人もの新入生が入ってもらった。
 部員が増えたおかげで坂田先生の頃にはなかったマイナーなパートも作ることになり、そのすべての指導を僕が担当した。本をたくさん読んで、指使いはこうらしいよというところから始めた。弾けなくて買ったことを後悔していたギターも、コントラバスの指導には役立ってくれた。
 僕はもう後輩に繋げるつもりだった。自分たちに県大会に行くような演奏はきっとできない。でも坂田イズムの強く残る同級生に侵食されすぎないように、そして言葉足らずになりがちな先生の話を翻訳するつもりでずっとやってきた。
 それでも、コンクール直前に「俺にだってな、指揮を振るプライドがあるんだよ」と言われたときは悔しかった。そのあと1人で全員を音楽室に呼んで、それぞれに声をかけて鼓舞して、ひとりずつ練習に戻した。また1人になった音楽室。報告に行きたかったのに、足がガクガクして歩けなくなってた。
 できれば金賞、せめて銀賞という気持ちで臨んだコンクールは銅賞だった。賞状をもらって、舞台上に立ったのは僕だ。

 後輩には結構好かれるタイプだった。
 卒業アルバムに「やっさんって書いていいですか」と聞かれたから当然のように受け入れると、サインペンで「やっさん大好き!」と書いてくれた。そのアルバムを見て同級生は「だからナメられるんだよ」と言った。
 今も、ナメられるかナメられないかってそんなに重要かなと思う。

 あのときの中1が中3になる頃には、部員たちは村上先生への信頼でいっぱいになっていた。
 村上先生ラブ、という部員も少なくなかった。悪いことではないけど、バランスは難しいなと今でも思う。
 でもそのうち、またアンサンブルコンテストで県大会に行けるようにもなった。


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 エッセイは5回書き直すと決めている。
 3回目の書き直しを終えたあとで、当時のビデオを見返してみた。
 ダメ金、銀賞、銅賞。それぞれにそうだろうなと思う点はある。
 他には、もともと坂田先生が金管吹き、村上先生は木管吹きだから、坂田先生の時代は金管が強くて、村上先生になると木管が上がってくるのが見ていて面白かった。

 でも何より感じたのは「みんなよく頑張ってる」ということ。
 散々なトラブルがあった。口を聞かないくらい仲の良くない部員たちもいた。つられて辞めたかった部員も、入部したばかりでまだフォームもままならない部員もいた。
 だけどみんな同じ舞台の上にいる。みんな、よく頑張っている。
 音楽は演奏をやめたら止まってしまう。あんなにつらくて、不満いっぱいで、大変だったはずなのに、ころころと展開の変わる曲を吹き切ろうとする。自分の楽器を、自分の譜面を全うしようと、中学生とは思えない眼差しで指揮者を見つめる。音楽は止まらない。
 ダメ金、銀賞、銅賞。それぞれにそうだろうなと思う点はあったけど、僕はもっと拍手を送ってあげたくなった。
 中2のコンクールの演奏終了直後、見に来てくれた坂田先生が「ブラボー!」と叫んだ。叫んだのは1人だけだ。銀賞という結果もあって、それは坂田先生だから、自分の教え子だから言ってくれたんだとずっと思ってた。
 でも、今なら僕だって叫びたい。
 ブラボー!!




サポートは、ちょっとしたメッセージも付けられるので、それを見るのがいつもうれしいです。本当に本当にありがとう。またがんばれます。よろしくおねがいします。