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カレンダーをめくるタイミングに関してのあれこれ

 月が終わる前にカレンダーをめくる行為は、その月の残り時間をなきものとする行為である。それすなわち、人数が足りていないのに出発してしまう遠足のバスのごとし。
 これは地球人が最初に覚えることわざだ。

「うちは今日から座りションにします」
 そういうお達しが出たのが小4のとき。以来、1日の間で最も目につくカレンダーがトイレのになった。
 そのカレンダーを父親は月が終わる前に平気でめくった。21時だろうがまだ18時だろうが、帰宅して気付き次第めくった。
 なんってデリカシーがないのだろう。まだ3時間も残ってるのに。
 図柄の変わったカレンダーはすぐに目につく。ため息をついて、「これすなわち、人数が足りていないのに出発してしまうバスのごとしだよ」と言いながらこっそりと直すこともあった。

 あのことわざを作ったのは前世の僕だったんだろう。
 朝になってめくれていないカレンダーを見るとホッとした。落ちついてカレンダーをめくりながら、これでいいのだと思った。

 
 ところが、最近になってあのことわざの矛盾点を発見してしまった。
 朝になってカレンダーをめくるということは、例えばそれが朝8時の場合、新しい月の8時間分をなきものとしているのだ。
 分かりやすく言えば、それすなわち、えー、人数が足りているのに出発しない遠足のバスのごとしだ。それだ。

 バスと言えば、遠足や修学旅行のバス移動前に学級委員2名程度で点呼を取るのは効率が悪いと思いませんか?
 中学の頃から僕は新案を持っています。各々が出席番号の前後の人がいるかを確認します。そしていなかった場合だけ申告する方法です。1人で十数人を探すのではなく、それぞれが2人だけ見つければいいから時間短縮になる。出席番号18番は17番と19番で確認をするからダブルチェックにもなる。どうでしょう。
 って、えっと、何の話だっけ。めちゃくちゃいじってくるクラスメイトのいるバスに乗るくらいなら違うクラスのバスで静かにしていたいって話だっけ。違うカレンダーの話。

 3時間早くめくられるカレンダーも、8時間遅くめくられるカレンダーも仕組みとしては同じ。なんだから僕は「まだ3時間も残ってるのに」と思うのと同じだけの熱量で「もう8時間も経ってるのに」と思ってもいいはずだった。
 だけど一度も思ったことがない。
 そう気づいたとき、自分が過去的思考だと理解した。
 過ぎていくもの、もうどうしようもないこと。そのことばかり考えている。

 2浪までして大学受験に失敗して、こんな大学と思いながら他の大学に通った。
 大学1年のときも大学2年のときもやめようとしてそれも失敗。ここは自分のいるところじゃない。ずっとそう思った。友達もほとんど作らず、もう会えない高校時代の彼女のことばかり考えてひたすらつまんなかった。

 その頃に普及し始めたのがwikipediaだった。
 当時の携帯電話でPCサイトを見るのは面倒だったけど、携帯でも閲覧できるサイトを見つけてから授業中はずっと見てた。
 へー、ビートルズって8年で解散したんだだとか、へー、ミスチルって活動休止してたときがあったんだだとか。終わりなきリンクのドアをやみくもにオブラディした。

 あの楽器なんだったっけな。
 山崎まさよしがよく使うタンバリンみたいな楽器があった。でも確かタンバリンではなくて、えっと・・。
 自力で思い出したのか検索して見つけたのかは忘れたが、とにかくそれがパンデイロという名前だということを思い出して検索ボックスに入力した。
 パ、ン、デ、イ、ロ。
 日本人は100人に2人くらいしか知らないであろう、こんなマイナーな楽器にもちゃんと日本語ページが存在した。100人のうちの2人のうちのどちらかが立ち上がれば物事は存在してくれる。
 そのページを読むと、パンデイロはサンバの楽器で、タンバリンよりも金属のジャラジャラが少ないため、細かいリズムを叩きやすいとのことだった。
 またパンデイロはカーニバルのリズム隊の要として活躍していたらしい。しかし、より大型の楽器が発明されると、音量面で劣るパンデイロは徐々に使用されなくなっていった。
 ああパンデイロ。けれど今度は、空中に投げたり回したりするジャグリング要員として、パンデイロは再び活躍の機会を増やしていった。
 しかし、危ないという理由でそれもなくなったらしい。
 ああああパンデイロ。

 別の日。
 wikipediaには2や3などの数字のページもあると知って、125で検索してみた。125は少しひいきにしていた自分の誕生日数だった。
 さすがに3ケタはないかと半笑いで検索ボタンを押したものの、予想に反して125のページはすぐに、しかも結構な情報量で表示された。
 例えば、「125は5の立方数である」なんていう表記があった。立方とは3乗(さんじょう:3回かけること)のことで、5×5×5をすると確かに125になった。
 そしてページの下まで行く途中に「125は3番目のフリードマン数」という表記があった。
 フリードマン数?
 さらにリンクが続いていたので飛んでみると、フリードマン数とはこういうことだった。

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 25は5の2乗で、どちらも2と5のみで表せる。こういう数字をフリードマン数というらしかった。
 他にも、

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 121は11の2乗で1と2だけだし、

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 125も確かに1と2と5だけで表せるのでフリードマン数だということが分かった。す、す、数学者ってすごい。
 そしてさらにその先に、127という数字に対しての説明があった。

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 127も1と2と7だけで表せるのでフリードマン数だ。みんなももうここまではいいはず。さっきまで知らなかったくせに変なの。
 そして今度は、その順番も1、2、7と揃っていることが分かる。
 こういうフリードマン数のことを、ナイスフリードマン数というらしい。
「ナイス」
 発見した法則に自分の名前を付けて、さらに特別な数字にナイス。す、数学者ってすごい。

 えっと、何の話だったっけ。
 そうそう過去的思考。過去的思考でやんなることもある。今だってある。
 でも、入った大学を素直に楽しめてたらこういったおかしみはなかったかもしれないし、あまりにつまらないから始めた作詞と作曲を今では真剣にやるようになった。ものごとの良い悪いは一概にはいえない。
 こういう言い方をするとき、「悪くはないし、むしろ良いよね」というニュアンスが含まれることが多いけど、サークルでも入ってたら今も楽しかったかもしれないし、作詞と作曲を覚えなければ家族が心配することもなかったかもしれないとは思ってる。ものごとの良い悪いは本当に一概にはいえない。
 パラレルワールドのことはわからない。
 だから今、この瞬間に集中しようというのは分かる。けれど今が一番素晴らしいという自己啓発的な言い方にはちょっと疑問だ。電車で隣になった人と親友同士になっていた人生もあったかもしれない。それだってきっと素晴らしかったはずと思う。

 過去的思考でやんなることもあるけど、良いことだってあったというのがきっと真実。未来的思考だってきっとそう。ないものねだりだから、つい羨ましくなっちゃうけど。
 めくれたカレンダーのように、正論の裏側にも正論がいることがある。どっちかに決めなきゃなんてことはない。どっちもいいよ、ぐらいでいいはずなんだ。

 まったく。何の話だったっけ。
 今度みんなでバーベキュー行こうって話だったっけ。よし行こう。


音楽
https://www.youtube.com/watch?v=c3o9PfaRHrg
安原健太の全情報
https://ptpk.exblog.jp/23471661/

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