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(医者の)言葉


「ねえなんでさ、緑嫌いなのに緑色の水着着てたの?」
 中3の春ごろ、衣替えをする母親の背中に向かって言った。昔のビデオで何度か見たことのある水着が積み重なった衣類の中に置いてあった。
 母親はカエルの色だからと言って緑色を嫌っていたはずだった。特に理由もなくそれまで口にしなかった疑問を、そのときはたまたま目についたからしただけだった。
 もしかしたらお調子者の母親がどうせまた笑い話を始めるんだろうと予想していたのかもしれない。しかし振り向いた母親は、大きな目をギョロッとさせた。「健太、これが緑に見えるの?」
「え、」どういうこと、というのを半笑いで示した。「だって緑でしょ?」
 その答えを聞くと、母親はけわしい顔のまま「健太、ちょっと座りなさい」と言った。思わず正座をしてしまう。
「え、なに、なに」
「健太」母親は右手で顔の高さまで水着を持ち上げた。「これは灰色です」
「え?」
「健太、あなたは病気なの」
「え?」

 そのあと母親は、ぼくが色弱(しきじゃく)という病気であること、赤と緑が見分けにくいことがあるということ、小1の身体検査で発覚してそのあと眼科にも行ったということ、遺伝性の病気で男の人に多いということ、たぶんお母さんの遺伝子が健太に行ってしまったということ、母親自身は色弱じゃないけど叔父さんは小学生の図工の時間に友達の顔を黄緑色で描いたことがあること、そして家族で今まで内緒にしていたことなどを重々しく話した。
 眼科に再度行った覚えはなかったけど、その検査自体には記憶があった。様々な色で点描された図があり、その中に書かれてある数字を答えるという検査で、てっきりあれはあんまり読めないのが通常だと思っていた。
 話の最後、今度眼科に行きましょうと言われて頷いた。

 ドラマのような病気の告知と雰囲気に飲まれて足取り重くリビングに行くと、姉がソファで寝転んでいた。「なんか病気らしいね」とぼそっと言うと、姉は読んでいた雑誌ごとバサッと起き上がった。
「・・聞いたの?」
「うん、なんか色弱だって」
「そう・・。びっくりした?」
「うん、まあ」
 そのあと姉は、高校の保健の先生に教えてもらって色弱の本を読んでいたこと、健太がどうやって服を選んでるのかが不思議だったことなどを話してくれた。妹と父親の反応もだいたいそんな感じだった。
 2日ぐらいは少し落ち込んで、同級生に打ち明けようか迷ったりもした。悲劇のヒロイン的な感傷の仕方だったように思う。
 でもその後、色弱についてはまったく気にならなくなった。眼科の先生が言ってくれた言葉のおかげだった。

 駅横の眼科は、前に行ったときとは違い内装がきれいになっていて、院長先生も女性の若い先生に替わっていた。
 母親を待合室に待たせて、まずは普通の視力検査に赤が強いだの緑が強いだのが加わった検査をした。そのあとが、20個程度の色をグラデーション通りに並べ直すという検査だった。
 一番端に来るだろうという色を決めて、それを基準に並べていった。なのに5個くらい並べるとまたさっきと似たような色が目についた。その色を列の間に入れると今度はグラデーションが崩れた。結局半分も並べることができず、このとき初めて色弱という病気(今は色覚特性と言い、小学校での検査もないようです)を言葉ではなく実感した。並べられないのは分かったから正解を並べるところを見てみたかったけど、それをお願いすることが出来ず、5分くらいガチャガチャやったところで「はいじゃあそこまでね」ということになった。
 待合室に戻ると母親にどうだったか聞かれたので、あれ難しいねと答えた。
「ねえ健太さ」と母親が小声になったので耳を近づけると、「視力検査のときに上とか右とか指でやるのやめなね、もう中3なんだから」と言われた。恥ずかしくなって「いや違うんだよさっきのはさ」と言い訳をしてたら名前を呼ばれた。

 髪の長い院長先生の、前の丸椅子に座る。そのうしろに母親が立った。
 先生は、分かりやすく、かつ丁寧で優しい言葉を選んでくれた。

「健太くん、健太くんは確かに色弱という病気でした。これは簡単に言うと赤と緑を見分けるのが苦手な病気です。今までに黒板が見にくいと思ったことはあった?
 うんそっか。ときどき黒板の緑と赤のチョークが見づらいという人がいるんだ。それと、色弱は遺伝的なもので男の人に多い病気です。その割合は5%で20人に1人。だいたいクラスに1人くらいの、決して珍しくない病気です。だからお母さんを責めたりしちゃいけないよ。
 えらいね。色弱の人がなれない職業がふたつあります。パイロットと印刷屋さんです。健太くんはそのふたつになりたいと思ったことはある?
 そっか。それならまったく問題はありません。この病気だからと言ってダメということは全然ありません。気にしなくていいんだからね。病気だって言われてびっくりしたかもしれないけど、落ち込んだりしなくていいんだよ。全然大丈夫です」

 この言葉を、たぶん100%受けいれた。
 色弱はその瞬間にまったく気にならなくなった。家族は気にしすぎだったと思った。でも自分の遺伝子でそうなってるんだと思ったら気にしちゃうのかも。そう考える余裕さえできた。
 高校でも隠すことはしなかったし、周りのみんなも高校生ともなれば笑いと気づかいのバランスが上手くなっていたので、だいたいは笑い話になった。赤と緑が苦手らしいと言うと全員が「じゃあこれは?」「これなんだ!」と、真っ赤なガーナチョコのパッケージや真緑の掲示板などを指さした。それは分かるんだよと言うと、よくわかんねーとまた笑いが起こった。何十回と説明してきたけど、上手く説明できたことはない。
 クラス替えをしてまでもダサいと言われ続けた7000円もするグレーの長袖は、水色だった。生物の遺伝の授業で活躍した。ネギトロ丼の最初の一口がまるごとわさびだった。それら全部を笑い話にできたのも、あの先生の言葉のおかげだった。

 そのあと、母親を嫌いになった。
 高3になる頃だったと思う。話しても話しても分からないから口をきかなくなった。
 当時、ぼくが一番嫌だったのは「思春期だから」とか「まだ若いから」と言われることだった。こんなに考えているのに。そんなに考えてないくせに。いろんな大人に対して思った。だから母親との口論中にも、思春期だからこう考えてるんじゃないと何度も怒鳴った。
 その証拠として、「もしあなたが死んでも、葬式で『ごめん俺が間違ってた』なんて絶対言わない」と言ったことがある。感情的な母親は、口論中ぼくの表情が反射して不機嫌な顔をしていたのに、そのときだけはこころの内側から殴られたような顔になった。
 それでも口論は不定期に続いた。怒りで震えるということが本当にあるのだと知った。苛々して苛々して手をあげそうになったとき、「女の人と自分より年下の子には手を出しちゃだめ」と、小さいころの妹とのケンカで母親に散々言われた言葉が思い出されて、呪いのように動きを封じられた。
 この頃、父親に頼んだのかもしれないがなぜかぼく主導で、ビデオデッキから使い方のまったく違うハードディスクレコーダーに買い替えた。ほとんど勝手に買い替えたので、コピー用紙3枚に録画の仕方と再生の仕方を書いてセロハンテープで貼って置いておいた。ある日、母親がテレビの前で背中を丸めてその紙を見て必死に録画しているのを見かけて、ぐうぅっと胸が痛くなった。
 恐ろしかったのは、次第に怒りの理由を忘れていったことだった。親のくせにと思っていたのは確かだけど、具体的なエピソードがどんどん失われていった。嫌なことは思い出さないようにするからなのか、それともそれほどのエピソードでもなかったからなのか。前者であることを祈った。

 そして高校を卒業して半年、両親が離婚した。
 小さい頃、まだその気配を感じる前は「離婚したらさ、殴るからね!」と食事中に笑っていたぼくも、当然のように賛成してやっと決まった。引っ越しの日、今思えば説教のような置き手紙を母親にした。
 母親がいない生活では、心が不必要に荒れることもなくなっていった。それまでは「おかえり」を聞くのが嫌で、MDプレイヤーを爆音で流しながら帰宅する行為を発明だ!と興奮したこともあったほどだった。
 でももう本当に一生会わないかもしれないな。そうも思った。

 ところが会う機会は意外にすぐやってきた。
 なにかと問題の起こる家族だった。離婚から数年後、「今こそ協力しましょう」と母親から父親にメールが入った。困った顔をした父親にそのメールを見させられて、「そういうとこだよ」と辟易した。お喋りな母親とそういう場で無口になる父親が話し合ってうまくいくはずがない。はあ、とため息をついて、
「俺が会ってくるよ」
と言った。「大丈夫なの?」と言われたけど仕方なかった。数年ぶりにメールをして日時と場所を決めると、母親は「いいの?」とどこかうれしそうだった。そういうとこだよ、と思う。

 待ち合わせた駅に母親を見つけた。少し太っていて、髪型が変わっていた。「健太、元気だった?」と笑顔を見せる母親もやっぱり緊張してるみたいだった。母親にそこでいいかなと言われてルノワールに入る。こんなとこ初めて入るなあと思った。
 1時間くらい本題について話したあとで、なんとなく雑談の時間みたいになった。そうするとお調子者の母親が顔を出して、健太の小さい頃はあんなだっただとか、こんなことして大変だったんだからと鉄板の話を次々とし始めた。そうだったね、そうだったのと笑っているうちに、なんというか、この言葉が適切か分からないけど、「かわいい人だな」と思った。うーん、というか、「しょうがない人だな」と思えた。ぼくはずっと母親に変わってほしかった。だけどこういう人なんだなと思えたら、すでに実体を失いかけていた怒りがふっと消えてった。母親を許すふりして、数年分の自分を許した。あっけなくてこんなもんかよと思った。小1の俺が、テストに「先生、自分で考えればいいじゃん」と書いた話をしていたあたりだった。

 その日の直前に、色弱とは別の病気で、すでに治ってる病気を未だに隠されていたことを妹が口を滑らせて知った。自覚させて治すか自然に治すかの二択で、絶対に言わずに自然に治すという選択をしたらしかった。
 父と姉に言うと、色弱のときと同じ「・・聞いたの?」という反応をした。治ったんだからいいでしょと思いながらもそのとき、自分はずっとそういう立ち位置だったんだなと知った。治っても言わなかったことはアホだと思うけど、心配かけていたんだなみんなにとは思った。妹は小さかったので、そのことを言いそうになるとわけも分からず叩かれたこともあったらしい。
 そうだったらしいねと母親に伝えると、母親は怒った。「あの子はまったく・・!」と、口を滑らせた妹に対してだった。
「いやいいじゃんもうとっくに治ってるんだしさ」
「いーや。私は死んでも言わないつもりだったんだから」
「なんでよ。色弱だってそうだよ、あれ言われたの中3だよ?」
 そう言うと母親の顔がまた少し曇った。ついさっきまで緊張してたのに笑ったり怒ったり苦しくなったり。そういう人なんだ母親は。
「いやいいんだよ、あのときの眼科の先生にちゃんと説明してもらって、全然気にしてないんだから。パイロットと印刷屋にはなれないけど全然大丈夫だからねって言ってもらったんだからさ」
「私が言ってもらったの!」
 ん?
「健太が検査してたでしょ。そのあいだに、『どうか不安にさせないでやってください』って紙に書いて先生に渡してあったの!」
「え、でも先生がやたらと励ましてくれて」
「だから、それは私が言ってもらったの。健太の後ろでお母さん泣いてたんだから」

 色弱だと自覚すると、確かに見にくいなと思うものが目につくようになった。
 赤ペンより青のほうが目立って見える。免許合宿の最初の検査で帰されないかドキドキした。街の信号がLEDになっていってよかった。洋服屋ではこれって何色ですかと聞くこともある。カーキって赤系だと思ってた。そこ鉛筆じゃなくて赤で書いてねと塾の生徒に言ったらもう赤で書いていたこともある。肉の焼き加減がわからないのは結構困るなと最近は思う。
 でもいつも冷静でいられたのは、クラスに1人くらいという事実と、それを話してくれた先生の言葉があったからだった。あそこまで丁寧に言われていなければもう少し動揺したままだったかもしれない。
 だけどそれは母親の言葉だった。心配しすぎなんだよと思った家族の言葉だった。

 
 そのことに気づいたからと言って家族の問題が魔法のように解決したわけではないし、SNSで繋がるくらい家族仲のいい人に引いてしまうこともある。
 あの言葉も、自分の遺伝のせいだと気にした母親が言わせただけだし、その意図をたまたまあの女性医師が汲んでくれただけ。
 でももしかしたら、今も高校生のときの自分の思考を大切にしすぎていて、一生会わず、葬式でごめんとも言えていなかったかもしれない。それよりはずっと良かった。



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