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変なクラス

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【1:変なクラス】

 「うちらマジ変なクラス!」という表現がある。
 これは中高生がよく使う言い方で、楽しくて最高!というのを「変」という言葉で表しているんだと思う。僕自身も高校生のころよく耳にしたし、口にもした。

 でも、どうしてわざわざこういう言い方をするんだろう。
 楽しかったなら「私はすっごく楽しかった!」と自分だけを主語にしても別に問題ないはず。それをわざわざ「変なクラス」と言うのは、クラスという単位で囲うこと自体に意味があるということだ。
 クラスという単位を意識することで、他の人たちにはわからない、自分たちだけが知ってる、ということを強く感じれるんだと思う。「この感じ、うちらにしか分からないよね」というときに楽しさは増幅されるから。
 だから「変なクラス」は、特に体育祭、文化祭、年度末の時期といった、クラスの単位を意識する時期に多発する。他とは違うという感じが出したいのだと思うと、最高という言葉を使わずに変という言葉を使うのも納得できる。


 ただ、多発するということは、本当は変じゃないということだ。
 ここで言う変とは、高校生なのにこんなに盛り上がってるとか、高校生なのに勉強そっちのけすぎるとか、ただのクラスなのに仲が良すぎるということなんだけど、このときに基準にされているはずの「高校生だから行事に興味がなく勉強をしっかりするクラス」のほうが本当は変だ。
 でもとにかく他とは違うと感じたい。ありえないことが起こってるんだと興奮したい。それが「変なクラス」という言葉に集約されているんだと思う。
 僕も高1のときのクラスは、進学校にも関わらず「このクラスは本当に・・」と先生たちがぼやくようなクラスだった。なのにそれをむしろ誇らしく思っていたところがある。クラス替えが近づくと「もうこんな変なクラスにはなれないじゃん」と僕も言った。


 囲う言葉は他にもある。
「いつめん(いつものメンバー)」や「にこいち(ふたりでひとつ)」もそうだし、「最高の4人!」みたいな言葉もそう。
 たまたまパスタを食べに行っただけの5人組を「パスタ会」と名付けたり、よく一緒にいる6人組がみんな名前がNの字から始まると分かれば「N6」と名付けたりするのもそう。グループに名前を付けるのはなぜか女子に多いけど、「地元」や「仲間」といった囲う言葉はなぜか男性をイメージさせる。
 会社や部活、それからアイドルは「同期」や「◯期生」という言葉を多用する。「今日同期で飲みに行くから」や「3期生全員で売れようね!」という言葉からは、単なる区別を超えた「自分たち」という意識がにじみ出ている気もする。
 

 この囲う作業に不可欠なのが、強固な境界だ。ゆるい境界ではだめ。内側と外側をはっきりと分けないといけない。
 だって「自分たちだけ」が楽しいんだから、そのメンバーが入れ替わっていいはずがない。いつめんはいつものメンバーだからいつめんだ。
 たまたまパスタを食べに行っただけの、その後特にパスタを食べに行きもしないパスタ会も「来週パスタのみんなでディズニー行こうよ」というときに他の人を呼んだりしないし、他の人がいるならパスタ会とは呼ばない。地元の集まりなのに「今日は隣の県から8人が来てくれてまーす」はありえない。
 つまり、「囲う」の裏側に存在するのは「排他的」という考えだ。


 排他的(はいたてき:他を排除すること)と表現すると、ただ楽しいだけだったはずのグループづくりが突然強烈な意味合いを持ってしまうかもしれない。だけど、境界を強固にする、メンバーを固定するということはそういうことだ。
 実際、今日遊ぼと誘ったら「ごめん今日パスタのみんなと会うんだ。また今度絶対ね!」のように断られた人もいると思う。別に怒ることではないけど、でもときどき腑に落ちないこともある。
 どうしてかというと、囲うという作業は、囲み終えた時点で「無条件に」他者を排除するから。たまたまパスタを食べに行っただけなのに、たまたま同じクラスになっただけなのに、たまたま同じ地元に生まれただけなのに。たったそれだけの理由で無条件の排除が始まってしまう。


 これは情報に関しても同じことがいえる。
 たとえば「足でリズムを取るのはリズム感のない人だ」というのを聞いたことがあるとする。そうすると、そのあと足でリズムを取る人を見るたびに「うわっ」と思う。プロが「足でリズムを取るといいですよ」とアドバイスをしているのを聞いたらその瞬間に信頼できなくなる。「足でリズムを取るのはリズム感がない人」という情報にまったく根拠がないにも関わらず。
 そうやって、友達だか家族だかから、たまたま最初に入ってきただけの情報を重要視しすぎる傾向が僕らにはある。そのせいで後からきた情報を無条件に排除してしまう。
 朝は常温の水を飲むのがいいと言われていたのに、テレビで「朝は氷水がいいんですよ」と紹介されていたらこの嘘つき番組と思ってしまうし、あのミュージシャンはパクリだらけだと聞いてしまうと、その後どれだけヒット曲が出てもなかなか没頭できなくなる。
 人だろうが情報だろうが、内側にいれれば、外側ができてしまう。その外側がどれだけ素晴らしくても、考える余地もなく無条件で排除、ということ。いるものは拒まず、来るものは拒む。


 囲う理由には、「自分たちだけって楽しいから」ということ以外にも、もしかしたら「安心できるから」というのがあるのかもしれない。
 たしかに、何者でもないよりは、いつめんがいて、パスタ会があって、同期がいてくれるほうがホッとする。
 だけどそれは、逆に言えば、「囲われていないと不安だ」ということになる。どこかに所属していないということは外側の、排除される側ということだから。
 つまり、どこにも所属していないというのは、実は「何者でもない」状態ではないということだ。どこにも所属していなければ、その人は「よそ者」になってしまう。
 安心の裏に不安がある。囲うということはやっぱり排他的だということだ。


 囲うのは排他的だと繰り返していると、囲うのはだめだというのが主張だと思われるかもしれないけど、それはちがう。
 だって囲うって、ただグループを作るっていうだけだもん。みんなしてることだし、僕もしてる。これ自体はなくせない。
 それに、もしなくそうとしたってなくせないと思う。なぜなら、囲うのは「楽しいから」だから。楽しいことには理由なく抵抗する人たちがたくさんいる。ゲームやスマートフォンの利用時間を制限してもなかなか守れないのと一緒。
 

 書きたいのは、囲うって楽しいよねということだ。
 それから、囲うってもはや排他的と同義だよねということ。
 つまり囲うのが楽しいということは、排他的って楽しいねということ。
 囲うのはみんな楽しいと思ってるんだから、排他的もみんな楽しいと思ってるよねということ。


 別に囲うのはいいし、楽しいのもいい。
 でも、排他的って楽しいねという気持ちがみんなにある、ということには自覚的になっていたほうがいいと思う。
 だってこれはいじめと同じ発想だから。


 いじめは、外側と内側を分ける行為だとも考えられる。
 いじめる側は必ず「うちら」と「あいつ」とを明確に分ける。いじめる人といじめられる人が、日替わりで流動的に入れ替わるなんてありえない。
 いじめにも強固な境界がある。その仕組みは、今の囲う話と「度がちがうだけで」まったく同じだ。生物学的には大きさの差しかないというクジラとイルカのように、違うっちゃ違うけど、同じっちゃ同じ話。


 なんであんなひどいことができるんだろうと、いじめのニュースを見て思う。でもそうじゃないかもしれない。ひどいことをしようとしたわけじゃなくて、ただ楽しいから始めただけなのかもしれない。
 排他的って楽しいね。そのスイッチは、なんとみんなが持っている。


 いじめってなんで起こるんだろうとか、どうしたらなくせるんだろうと、ほとんどみんな考えたことがあると思う。だけど、そうやってまるで外側から眺めるみたいに考えていてもだめなのかもしれない。
 排他的って楽しいねと思うスイッチは、みんなが持ってる。見た目も能力もさほど変わらないのになぜかいじめられるのと、ただ境界の外になっただけでパスタ会に断られるのとは、構造としては変わらない。パスタ会に行けなかった人も、タイミングによってはめちゃくちゃ傷つくこともある。


 仕組みは同じ。度がちがうだけ。でも、その度はどうやって調整する?
 楽しいときにブレーキをかけようなんてまず思えない。エスカレートしてしまう可能性だって十分にある。
 ただ楽しくて囲うだけのグループが、度を超えるといじめになるだけ。スタートは同じ。だから、もしかしたら自分だって加害者になるかもしれないと考えないといじめはなくせないかもしれない。いじめっ子は、いじめっ子として生まれてくるわけじゃない。


 囲うのが楽しいのはそりゃそうだし全然いいけど、その結果暴力が起こったり、いじめが起こったり、理不尽な思いをする人が出てくるのはいけない。
 でも仕組みが同じ以上、いつだってそっち側に転んでしまう可能性がある。そのことに相当自覚的じゃないと、ただ楽しかっただけの集まりが、気づけばとんでもないことになるかもしれない。


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【2:風通し】


 私立高校の1年生に聞いた話。
 学校で初めて泊まりの移動教室に行ったとき、生活指導の先生から挨拶の大切さについて1時間近く話があったらしい。その時点でうええって感じだけど、それだけじゃなく、その先生は自分からは決して挨拶をしないことで有名で、しかも挨拶をされても返さないことでも有名だった。
 そのうえ、生徒たちがスマートフォンを没収されている状態で(その校則の是非は置いておく)、その先生は食堂での食事中に自分のスマホをテーブルに置いて、「いけ」だの「うわぁ」だのと大声で野球観戦をしていたらしい。


 正しいか正しくないかを「考え終えた人」は大声になりがちだ。正しいものは正しいし、正しくないものはもうどうやっても正しくないから。
 これはどっちかな、状況はどうだったかなと考えるのは面倒だし時間もかかる。でも「これは正しい」「だからそれは正しくない」と決めてしまえば楽だし、絶対正しいんだから迷うことなく厳しくできる。疑わないと大声になる。拡声器で主張する人もそう。
 世の中に正解があるとするなら、意見のあちら側とこちら側を行き来して、どっちがいいんだろうと「探る姿勢」自体が唯一正しいのだと思う。面倒くさいし時間のかかることだ。でもそのかわり、誰かを大声で非難したりはしない。だって今も考え中だから。本当にすごい人は、声を荒らげない。
 でももう考え終えた人は、絶対に正しいものを強制すればいいだけ。だから当然大声になる。


 こういうことは、風通しの悪い空間で起こりやすい。
 風通しっていうのは、部屋の窓を開けて空気を通してあげること。風通しが悪いというのは、第三者の行き来が少ない、内側と外側に強固な境界がある状態のこと。
 あの生活指導の先生は、私立高ということもあって勤続25年らしい。長くても10年程度の市立校ではあそこまではならないかもしれない。
 挨拶について1時間話しておきながら自分は挨拶をしない。スマートフォンを没収されている何十人もの前で平気でスマホを使える。アホな先生だとは思う。けどこれがこの人の元々備わった性質というわけでもない。
 だって、この先生も他の高校に転勤になればそんな態度を取れるわけがないから。1年目でこんなにえらそうにできるわけがない。ということは、「この空間だから」生じている性質だということ。
 他で取れるはずのない態度を取っている、という時点でアウトなはずなのに、風通しの悪い空間ではなぜかそれが許されて(というより判断機能が失われて)、こんなふうにエスカレートしていくことがある。一族経営の会社や、伝統的に続くものにトラブルが多いのもこういうことだと思う。



 友達には同期の気になる男性がいる。USJに行くと伝えると、彼は当日「ユニバどう?」と連絡をしてきてくれた。
 テンションのあがっていた友達は、ババババッと4件のLINEを送った。すると彼から返事がきて「ふざけんな」と書いてあったらしい。
 数週間後、また普通に連絡をしてきたので、「なんか言うことないの?」と送ると、「あのときはMステですげえいい曲だったから」と言われたという話を聞いた。


 えええええと反応していると、「あれ、そういうリアクション?」と友達が言った。友達としては、原因がわかって納得してしまったようだった。
 それでも「こういう言い方されたら嫌じゃない?」と聞いたらしい。彼は「俺は嫌じゃないから今後もそうする」と返した。これも納得しちゃったと。
 彼は謝らない人だというのを聞いていたので少し覚悟はしていたけど、それでもうーんと首をひねって「やっぱりひどい気がするけどね。自分から連絡してきたんだし」と言った。すると友達は「たしかに」と言ったあとで、「でもね、前に『なんでそういう言い方するの』って聞いたら、『いやこういう言い方お前にしかしないから』って言われたの」と、プラスの情報のように続けたのでゾクッとした。
 とっさに、「DVになっちゃいそう・・」と言ってしまった。


 DVは、締め切ったカーテンの内側の、風通しの悪い空間で行われるものだ。カーテンも壁もないところでおそらくDVは起こらない。「お前にしかしない」というのはうれしい言葉じゃなくて、閉鎖的な空間をつくる言葉だと思う。
 さっきの私立高の先生の話をゆっくりして、風通しの悪いところでは何かがエスカレートしやすいからちょっと怖いと伝えた。
 友達は丁寧に話を聞いてくれたあとで、こう言った。「でもね、彼はすごく家族思いなの。次に好きになる人は絶対家族思いな人がいいと思ってたから」
 正直、うわっと思った。家族思いには、家族以外にも優しい人もいれば、家族だけ思いな人もいる。
 家族だけ、仲間だけが良ければいいやと思ってしまうと当然境界は強固になる。内側と外側がはっきりと区別される。そうなると、たとえば店員さんに冷たい態度を取れたり、コンビニの入口付近で溜まって迷惑をかけれたり、ゴミをポイ捨てできたりする。だってそこは内側じゃないから、どうでもいいから。
 しかも内側の人にさえひどい言い方するなんて。暴言や暴力は愛情のしるしにはならないのに。「家族だけじゃなくてみんなにやさしいのが一番よくない?」と言うと、「ほんとだ」と友達は言った。


 風通しが悪いのは、囲って排他的になったせいだ。
 ああいう私立高の先生もDVも(こちらは予感でしかないし外れるといいけど)、風通しが悪いの悪い環境でエスカレートしていくもの。いじめもそうだと思う。
 他者の目があるところでは起こりえないことが平気で起こるのが境界線の内側。内側では独自のルールが生まれやすい(このルールがおもしろかったりもする。友達同士でしか分からない暗号を作ったり)。ただ、その内側で突然変異のように生じた問題は、外側に見えるようになる頃にはすでに手遅れになっていることも多い。その例は、ニュースを見ていればいくらでもでてくる。
 問題には様々な要因がある。それにいろんな人がいる。でも共通した原因に「強い境界線で囲ってしまうこと」があるというのはやっぱり意識しておきたい。囲うのはみんな好きなんだから。起こす側なのか巻き込まれる側なのかはわからないけど、みんながそのトラブルにあう可能性がある。
 風通しを悪くするとそうしたよどみが生じやすいのに、それでも囲ってしまうのはやっぱり楽しいからなんだと思う。楽しいがゆえにわざと風通しを悪くしてしまうんだから。


 いじめや暴力のようなトラブルとまではいかなくても、風通しの悪い空間ではそこだけの慣習的なものが発達しやすい。
 たとえば僕も所属していた吹奏楽部では、実力のある学校ほど勢いのありすぎる起立と返事をする(冷静に考えれば、プロはそんなことしていない)。他にも、合唱部の口の開け方、街の似顔絵師のイラスト、クラシックCDのジャケット、洋服屋の販売員の接客、選挙の街頭演説、就活のスーツ。
 こういう空間は、せっかく新しく入ってきてくれた人にも「こういうものだから」と教えてしまうせいで、すぐ内側の人間にしてしまう。
 それに、外側から来た人にだって早く安心したいという気持ちもある。本当はお気に入りのスーツが着たくても、周りを見て、就活はああいう色のほうがいいんだなと合わせる。
 同調圧力は内側の人だけが持っている力じゃない。みんなが「囲う」世界のやりかたを選んでしまう。
 もちろん、名産品や独自の祭りなんかの、結果として地元のブランドになるみたいなことはある。けれど悪習もやっぱり多いし、辟易としながら合わせている人もたくさんいるんだと思う。
 最近の例だと、LINEのスタンプのフォント(文字の字体のこと)や、YouTuberの動画の作り方もかなり似通ってる。こんなに新しいものでさえ、周りを見て文脈に左右されて、結果として囲いができてしまう。


 そういうものだからというのが僕はめちゃくちゃ苦手で、普段あまり怒らないけど、そういうものだからを目の前にすると一番感情的になる。
 でも人を傷つけたりしないならまだいい。それがいじめや暴力(当然言葉によるものや無視も含む)に変わってしまうのはいけない。
 ただ、何度も書くけど、囲うという点では全部作られ方が共通しているから、いじめや暴力だけを取り除くことはできない。加害者があらかじめ分かればその人を取り除けばいいのかもしれないけど、残念ながら加害者候補は全員だ。みんな囲う。度がちがうだけ。
 あの生活指導の先生をやめさせても、何も解決しない。


 さかなクンの有名なエッセイがある。
 中学で吹奏楽部に入っていたさかなクンは(水槽関係の部活だと思って入ったらしい)、突然同級生や先輩が無視をされるという事態にでくわして、わけがわからなくなった。だけど大好きな魚にも似たようなことがあると気付く。引用します。


「たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です」


 このエッセイで「囲う」ということばかり書いてたら思い出した文章だった。
 囲った内側の世界。せまい水槽の中。生き物はちがうけど、よく似てる。


 また、最近読んだ文章で目から鱗なものがあった。
 社会学者の内藤朝雄さんのインタビューで、いじめの1つの解決策として以下のようなことが書いてあった。引用します。


「『短期的な解決策』として『学級制度の廃止』『学校への法の導入』をセットで実行することが有効だと思います。
 クラスを廃止し、大学のように授業を単位制・選択制にすることで、人との距離感が取りやすくなります。生徒は授業ごとに教室を移動し、思い思いの席につく。食事も教室や庭、カフェテリアなど好きな場所で好きな相手と食べる。だれかが無視したり、悪口をいってもクラスという閉鎖空間がないので、いじめそのものが力を失います。大学でいじめが激減するのは、そのためです」


 うわあああああと思った。衝撃的だった。ほんとだ。大学にはいじめがない。
 変という言葉をつけなくても、クラスという単位そのものがすでに囲われた風通しの悪い、閉鎖的な、排他的な、よどみを生みやすい空間だったんだ。
 そのせいでいじめが起きるんなら、たしかにクラス制度を撤廃しちゃえばいい。
 僕自身、クラスというものにはいくつも思い出がある。なくすと言われれば、もう通ってないくせに、寂しい気持ちがないわけでもない。でもこういう腐った郷愁感がいくつもの改革を潰してきたんだと思う。
 即刻撤廃すべきだと思う。
 強い境界がなければ、外側で悲しい思いをする人もいなくなる。デメリットがあるのは、内側でぬくぬくしてきた人だけだ。


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【3:潔癖】


 潔癖という言葉は、極端なきれい好きのことだけじゃなく、「こうじゃなきゃいけない」と強く思いすぎてしまうことを指すこともある。
 小さな例でいえば、塾講師をしていたときに見てきた「ノートをきれいに書きたすぎる」生徒もそう。きれいに線を引くこと、いろんな色を使うこと、計算メモは消すことを目的としてしまうその生徒たちは、だいたい勉強が苦手だった。
 潔癖は、理想の自分以外を許せない。完璧主義と言い換えてもいいと思う。「この大学に行かないと」とか、「この仕事に就かないと」とかを強く思いすぎてしまう。努力できる範囲ならいいけど、理想の自分が先走ってしまうことも多い。すると、こうじゃなきゃいけないは、その裏にある「そうじゃないならしたくない」を強めてしまう。
「この大学に行けないなら受験をしない」「この仕事に就けないなら就活をしない」理想の自分になれそうにないことを察知すると、失敗する前に挑戦をやめる。挑戦しないでいれば、理想とは違うだめな自分を見ることなく、完璧なままの自分でいられるから。
 だからこの潔癖、完璧主義には、意外と努力を嫌うタイプが多い。理想だけが独立してあって、そうだったらいいのにの世界だ。でも当然努力とは無関係なこともある。
 引きこもりは、教室で仲良くしなきゃとか、ちゃんと勉強できるようにならなきゃと思いすぎてしまうせいでなることがあるそうだ。真面目な人ほど理想の自分と比べすぎる。
 さっきのノートをきれいに書きたすぎる生徒は、別に頑張ってないわけじゃない。本人としても自分は頑張ってるという自負があるはずで、だけどふと成績が全然伸びないことに気づくと、突然勉強が嫌いになってしまうこともある。


 熊谷晋一郎さんという大学教授の、大好きな話がある。自立と依存の話だ。
 自立と依存は逆の言葉のような気がするけど、実はそうじゃないと熊谷さんは言う。どういうことだと思う?
 たとえば大学の5階で地震があったとする。避難する手段はエレベーター、階段。他にははしごやロープを使うこともできる。でも、熊谷さんは脳性マヒのために車椅子で生活をしてる。避難する手段はエレベーターしかない。もしエレベーターが止まってしまえば、絶体絶命になる。
 この「エレベーターに強く依存している状態」と比べると、健常者は「エレベーター、階段、はしご、ロープのそれぞれに弱く依存している状態」だと言える。そうやって複数に依存している状態が「自立」だと熊谷さんは言った。ひとつに依存している状態だとそれを失ったときに大ダメージを受ける。でもいくつもに依存していれば、依存していることさえ忘れるぐらい依存状態に無自覚でいられる。実際どれかひとつを失っても、なんとかなる。


 この話はさまざまに応用が利いた。
 電車が止まったときのことを考えればまずはひとつ、思い付くはず。
 他には、たとえば友達。友達がひとりしかいないと、その大事な友達に突然冷たくされたら絶体絶命になる。どうしたのとごめんねの連絡を繰り返しながら、強い孤独感で頭の中がいっぱいになる。でももし友達が100人いれば、友達は多ければいいってものでもないけど、それでもさっきのパターンよりはピンチじゃなくなる。そういうときもあるかなと、むしろ待ってあげられるかもしれない。
 他にもある。僕はメニューの多すぎるご飯屋のことをずっと無計画のせいだと思ってた。僕がお店を出すなら一品にこだわってとことん美味しくする。そうすればコストだって抑えられる。そう思ってた。だけどそのメニューの食材が不作だったり高騰だったりでいつもどおり確保できなくなれば、簡単に経営は困難になる。メニューがいくつかあれば、当然やり過ごせる可能性も高くなる。
 これは実験したわけじゃないけど、もしかしたらトラウマも別の思い出を重ねればなくせるのかもしれない。元カノのことばかり思い出してしまう花火大会にも、別の人とあと20回は行けばもう泣かずに済むかもしれない。


 依存しているのがひとつだけだと、それを失ったときに絶体絶命になる。でもいくつもに依存していれば、どれかひとつを失っても大丈夫になる。
 熊谷さんは、大学に入るタイミングで一人暮らしを始めたらしい。親にだけ依存している状態をとても不安に思ったからだそうだ。ときどき母親みたく世話をしてくれる人が現れると警戒するとも言った。その人がいないと生きていけなくなってしまうから。


 茂木健一郎さんの話にも大好きな話がある。
 小さな頃から蝶が大好きだった茂木さんは、小学校に入ると「蝶オタク」だと言われるようになった。そこで茂木さんは蝶の学会に入ってみることにした。
 蝶の学会では、誰も自分のことを笑わなかった。それどころか、自分よりも立派なはずの大人は自分よりも蝶オタク。そのことにすごく安心したという話。


 つまり、コミュニティを増やすのがいいんだと思う。
 友達にも家族にも言えないことはある。家と学校、家と会社だけでは少なくて、嫌なことがあったら逃げれるおばあちゃんちみたいなところが、本当はあるといい。
 バイトをしたり、習い事をしたり、ネットで気の合う人を見つけたり、本を読んだり、物語やドキュメンタリーを見たりして、コミュニティを増やすのがいいんだと思う。
 そしてコミュニティが増えると、気づくのはなぜか自分のことだったりする。


 家族でいるときの自分と学校にいるときの自分はちがう。家ではママと言ってても、学校ではお母上と言ってるかもしれない(ちがうか)。
 コミュニティが増えると、そのコミュニティごとの自分が出てくる。塾にいるときの自分と、美容院にいるときの自分と、行きつけのお店にいるときの自分はちがう。そうしていろんな自分に会うと、こうじゃなきゃいけないではいられなくなる。完璧主義ではいられなくなる。だって自分でさえ複数いるんだから。
 それに当然、いろんな人と出会えば、いろんな人がいるんだなと思えるようになる。「この大学に行かないと」と思ってたけど、バイト先の尊敬できる先輩は大学すら行ってないかもしれない。いつも眠そうに働いて嫌いだったコンビニ店員も、何か事情があるのかもなと思えるようになるかもしれない。
 僕は、20才ごろのつらい時期に、たまたま遠くに住む人と友達になれたのはとても大きかった。ここじゃないどこかに自分を知ってくれてる人がいるというのは、今の想像力でも足りないほど安心させてくれた。


 家にしかコミュニティがないと、何かあったときに家族へのイライラでいっぱいになる。しかも抜け出す方法がない。イライラしている人の話し合いは意見の暴力になるだけ。
 でもいろいろなコミュニティがあれば、ある人にだけは「聞いてようちの家族さ」とプライベートな話ができるかもしれない。
 あのパスタ会も、この子があの子を嫌い始めて突然不穏な空気が流れ始めるかもしれない。もしパスタ会しか友達がいないとつらいけど、他にもコミュニティがあれば「大変だったよこの間さ」程度の話で済むかもしれない。


 潔癖でいてしまう人は、失敗を恐れて動けなくなるだけじゃなく、なぜか他者への攻撃性を増してしまうことがある。
 第一志望だけ受験して落ちても、自分は「行かなかった」と言える。そんな中、すべりどめの大学に進学したやつらに「そんな3流大学通って何になるの?」と言えてしまう。自分は(失敗してないのでまだ)完璧だからとことん強く言える。疑わないと大声になる。
 ネット上では、顔が見えないから(自分の弱さがバレることもないから)余計に攻撃性を強めてしまう。


 頭の中も、ひとつの場所に居続けると風通しが悪くなる。風通しが悪くなると何かがエスカレートすることがある。コミュニティを増やして経験を増やさないと、頭の中の風通しは良くならない。
 そういう、風通しの悪い、コミュニティの少ない人が使ってしまいがちな言葉に「普通」がある。おそろしい言葉だ。この普通という言葉は非常に強い口調で使われることが多い。それはただの内側の常識というだけなのに。「普通こうだろ」は、見てきたコミュニティの少ない、知ってる普通の数が少ない人が使う言い方だ。
 さらに怖いのは、この「普通」が感覚的で理由がないというところ。理由がないから話し合いはうまくいかない。どれだけ言葉をつくしても、普通こうだろ、ありえないだろという強い口調ではじかれる。
 自分にもそういう経験がある。小5のときに担任になった先生が初めて生徒を呼び捨てにする先生で、相当な抵抗感があった。「呼び捨てにするなんて先生じゃないよ!」と友達んちでそのお母さんにまで言った。呼び捨てにする先生のほうが多いと気づくのは中学に入ってからだった。


 いろんなコミュニティに所属して、いろんな自分がいること、いろんな人がいることを知れば口調は勝手に柔らかくなる。いろいろいるんだな、みんな不完全なんだなと思えれば、強い刃で他者を攻撃したりはしない。疑わないと大声になる。疑わないと楽だ。いろいろ考えるのは大変だしそのたび困惑する。
 でも本当は、強い口調で誰か(と自分)を叱咤しているより、こっちのほうがずっと楽なんじゃないかと思う。
 大声で主張する立派な人は、立派に見せたい人。一生懸命考えてきた人ほど、本当に立派な人ほど、やさしい口調になる。


 NHK「プロフェッショナル」で、ヴァイオリニストの五嶋みどりさんを取材した回があった。五嶋さんは障がいのある子供たちと演奏会を開くことになり、その最初の練習にカメラが密着していた。
 子供の障がいには差があって、既存の曲ではパート分けができないため、その学校の先生がオリジナルで曲を書いたということだった。五嶋さんが学校に着くとまずその演奏を聞いてもらいましょうということになった。
 その演奏が、おせじにもうまいと言えるものではなかった。リズムはバラバラ、メロディもテンポも分からない。ドンドン、バンバンと無心で叩かれているような打楽器の音が体育館に響く。生徒たちの真ん中で、作曲をした先生が指示を出しながらあたふたして「どうしよう」と漏らしていた。オリジナル曲なんて作るから、と正直僕は思った。
 そこで、五嶋さんの表情がアップになる。黙ってその様子を見ていた。「これはさすがに」とか、「ちょっとまずいですね」とかを言うのだと思った。少なくとも僕はそう思った。
 そしてとうとう五嶋さんが言ったのは次の言葉だった。「素直な音が、私には聞こえます。一生懸命している、という音です」
 その言葉にぼろぼろ泣いてしまった。五嶋さんは10代のころから活躍してきた人だから下手な演奏なんて許せないと勘違いした。本物って、一流ってこういうことなんだと思った。


−−−−−−


【4:境界に穴を開ける】


 テレビ東京に「青春高校3年C組」という番組がある。理想の教室を作るというのがコンセプトの、20才までを対象としたオーディション番組だ。
 毎週オーディションをくり返して、合格者が20人ほどになったころ、インタビューで副担任役のNGT48中井りかさんがこんなことを言った。


「いろんな生徒がいるんだけど、もうこの時点でできあがっちゃってるなーとも感じていて。新しい子が入ってきたときに『なじめるかな』ってちょっと不安になっちゃうかもしれないから、ここだけで盛り上がって完結しないで、もっとオープンな雰囲気になっていけばいいなと私は思ってます」


 風通しを良くする、めちゃくちゃいい言葉だ。
 副担任としての立場を意識してたとしても、楽しくなってく場を警戒するのはとても難しい気がする。


 さかなクンは、さっきのエッセイをこう締めくくっている。


「小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう」


 今がつらい人は、それは囲われたひとつのコミュニティにいるからかもしれない。コミュニティを増やすのがいいよ。
 今が楽しい人。その楽しさは排他的な構造から来てる可能性があるから、よーく注意して。
 別に自分たちが楽しければいいよと思っていたとしたら、それ自体が排他的な証拠。
 排他的とは、自分が自分ち以外をゴミだらけにするということ。そして他人が自分ちをゴミだらけにするということ。そういうことだと思う。


あとがき

 バラバラに考えてきたことが繋がって、多構造的なエッセイになりました。
 繋がっていくのが、伏線回収する小説のようで興奮しました。
 そんな気持ちで読んでもらえてたらうれしいです。



■参考にしたもの
□さかなクン「広い海へ出てみよう」(いじめられている君へ)
https://www.asahi.com/articles/ASH8Z517SH8ZUEHF00D.html
□内藤朝雄さん「学校のあたりまえを疑え!」 
https://socialaction.mainichi.jp/cards/1/19
□熊谷晋一郎さん(NHKオイコノミアに出演されていたときの話を参考にしています)
https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html
https://soar-world.com/2018/01/30/conference2017_watashi/
□茂木健一郎さん(記憶にあったのは別の記事ですが大体同じ内容です)
https://twitter.com/kenichiromogi/status/233699857473359872
https://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8311889.html
□プロフェッショナル仕事の流儀 五嶋みどりさんの回
http://www.nhk.or.jp/professional/2014/1103/index.html
□青春高校3年C組 座談会
https://natalie.mu/owarai/pp/3-c02/page/3
□そして直接言及はしていませんが、このエッセイは「この感じ、うちらにしか分からないよね」というを含め、小沢健二さんの「笑い」というモノローグに大きく影響を受けています。ひふみよ、というライブでの朗読で「我ら、時」というCDに収録されています。

■他のエッセイはこちらから
https://note.com/yasuharakenta/n/n24a3c79136c4
□(2021年9月時点での最新エッセイはこちら)
https://note.com/yasuharakenta/n/n434f3ae05999

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