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あとがき

「谷垣先生の歩んだ道幅は0・3㍉だった」。松本市の「あがたの森文化会館」で開いた谷垣夫妻の企画展を訪れた青年海外協力隊員だった男性はこう言った。この本の「はじめ」で谷垣君の人生は「定規で1本の線を引き、その上を外れることなく進んでいく」と書いたところ、その道幅はボールペンで言えば、極細だというのだ。
一直線の向こうの「住民負担による地方の外科の確立」に向かって治療に専念し、医療制度をめぐって世界機関や国と闘った。「私財を投じてパイロットセンターを建設した」と言われることを嫌い、自分自身に常に厳しい目を向けていた。支援者には文書や自らマイクで語りかけたビデオで取り組みを報告している。テッサワには骨を埋める覚悟をしで移り住んだ。と同時に墓も造った。妻の静子さんが亡くなった時点で、妻の横の墓に入る決意をしていた。
谷垣君の一周忌にあたる2018年3月7日、浅間温泉で谷垣君と信大ワンダーフォーゲル部で一緒に行動した当時の若者12人が参加し「偲ぶ会」を催し、谷垣夫妻の企画展の開催を申し合わせた。その年の夏に実現させ、続いてJICA青年海外協力隊の訓練所のある長野県駒ケ根市や、神戸市のJICA関西(神戸市)でも開いた。
その後、ニジェールからたくさんの夫妻の情報を発信してくださったJICAニジェール前支所長の山形茂生さんや、青年海外協力隊調整員だった安城康平さんが加わり、「谷垣雄三氏・静子夫人記念事業実行委員会」が発足した。現地で夫妻と接触していることだった。企画展に現地の空気感が漂うになり、インターネットで夫妻に会えるようになった。
取材の協力をいただいた医師の熊谷義也、東璋、藤森英之、清澤研道さん、それに峰山町のみなさんに感謝申し上げたい。藤巻光夫さんをはじめワンゲル諸氏にはダンケ。
巻末に山形さんの信大医学部創立75周年記念講演会の講演を添えた。夫妻の足跡を補足していただきたい。

令和2年(2020)8月31日
著者・川本 晴夫


谷垣雄三君 略 歴


1961年(昭和36年) 4月  信州大学医学部入学 
1967年(昭和42年) 3月  信州大学医学部卒業 
1969年(昭和44年) 1月  東京大学安田講堂事件
  4月  医師国家試験を3回、ボイコットの末、合格、医師資格を取得
  9月  長野市の順天五明堂病院に翌年3月まで勤務
1971年(昭和46年) 1月  埼玉県小川町の小川町赤十字病院に勤務、以降、ニジェールに渡るまで東京都東村山市の保生園病院、北海道帯広市の帯広協会病院に勤務
1973年(昭和48年)12月   北アルプス裏銀座コースを冬季に縦走
1979年(昭和54年) 4月  ウラン鉱試探査するIRSAの嘱託医としてニジェールのサハラ砂漠の村に渡る。帰国後、東京・小岩病院に勤務
1982年(昭和57年) 1月   JICA(国際協力機構)から医療専門家としてニジェールに派遣される。ニアメ国立病院に赴任
妻・静子さんも同行
1992年(平成4年)      広大な国土の医療を充実させるために地方に外科施設が必要と提案、国土の中央のテッサワに自費で
パイロットセンターを建設、医療活動に乗り出す。
1994年(平成6年)      読売国際医療功労賞を受賞
1999年(平成11年)5月6日 妻・静子さん死去。テッサワ自宅に埋葬される。
2001年(平成13年)     JICA派遣の任期が終了、自費で活動を継続
NPO「アジア・アフリカにおける医学教育支援機構」、港北ロータリークラブ、出身地の峰山町などの間に、支援の輪が広がる。
2002年(平成14年)       旧センンターを撤収、自費で新センター建設
2007年(平成19年)     これまで取り組んだ成果をまとめ、フランス語で提言書を作成、発表会をニアメで開く。
2008年(平成20年)     シチズン・オブ・ザ・イヤー賞を受賞
2009年(平成21年)     読売国際協力賞を受賞
2010年(平成22年)     峰山町の同級生ら4人がテッサワを訪問
               京都オムロン・ヒューマン賞を受賞
               公益財団法人社会貢献賞を受賞
2017年(平成29年)3月7日 死去。75歳。静子さんの墓の横に埋葬される。

 

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