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気づいたら持っている能力の偶然性と、社会にあるゲームの固定性

気づいたら持っている能力の偶然性

18歳、20歳、或いは23歳かもしれないが、人間社会で何かをやろうと決めると、自分の能力や資産が問われることになる。起業をすれば、もろ市場や競合と対戦することになるし、就職するにしても、面接などを突破しなくてはいけない。

この気づいたときに持っている能力や資産というのは、偶然的なものだ。
以下、それを説明したい。

生得的偶然性

まず、人はみな生得的に、つまり生まれたときに能力やその能力に影響を与える環境が与えられている。これは、不可抗力であり、降ってくるもので、受け入れるしかない。

■身体的傾向性の偶然
まず、身体的傾向性の所与がある。それは、背が高くなりやすい傾向であったり、言語・論理能力が発展している脳の構造だったり、目が良いとか、そういう遺伝子的なことだ。

■社会的環境の偶然
次に、生まれ落ちた環境が偶然的だ。内戦が行われているようなアフリカの国に生まれるのと、先進国の日本に生まれるのでは、環境が大きく異なる。どんな両親の下に生まれるか、或いは両親がいないかもしれない。

この偶然は、「なんで私はわたしに生まれたのか?」という未だに全く解決されない哲学的な問題である。

生後的偶然性

生まれた後も、そのある時代の、ある場所に生まれてきた偶然から、解き放れることはない。

幼少期の経験は、その人の人格や能力の基礎となる。

人間社会に生きる我々は主に人から影響を受ける。
以下のように生まれてから成人するくらいまでに出会い、コミュニケーションをする人々が、どのような人物か、により社会の見方や、自分の物語が形成されていく。

両親・兄弟姉妹
幼稚園の友人や先生
小学校の友人や先生
中学校の友人や先生
高校の友人や先生
習い事の友人や先生
親戚

東京都北区に生まれたら、基本的にはそこの地元の幼稚園や学校に行くわけで、それはある種所与である。金持ちだから、海外の学校に行くことができるというかもしれないが、それも裕福な家庭に生まれた所与である。

また、人だけでなく、家の中に本が沢山あるとか、刺激があるとかそういうことも偶然性である。

生まれも育ちも偶然的

以上、生まれた段階は議論の余地なく、偶然的であり、生まれてからも偶然性に囲まれてすくすくと育ち、人格や能力を作っていく。

表面的な不遇も、実は幸運

上述のような世界観は、一般的にも広く認識されているのではないか。

ただ、最近よくテレビに出てる成田悠輔さん。東大主席卒業で、今はイェール大学助教授を務める誰もが認める天才。弟も上場企業の副社長の資本主義の成功者。

ただ、育ちは、恵まれていないという話をよくしている。世帯年収は150万円くらいで、親父が高校生くらいで失踪し、母親は病気に倒れた、と、壮絶である。

しかし、よく考えてみる必要がある。

子供ながらに、つらい思いをしながら、サバイブしてきて、かわいそうに、と思うのは短絡的すぎる。よく話を聞いてみると、成田家は、・お母さんが受験に熱心で、小学生のころから子供を塾にいかせていた・お父さんは麻布、早稲田大学の出身(未卒業)で、家には小林秀雄全集など思想や哲学書がたくさんあったという。

お父さんは、世間に流されず本質にしか興味のないような変わりものであるが、真理をつく優れた価値観を持っていたかもしれない。そんな父親と毎日密接にコミュニケーションをしていれば、これはもう年間数千万円クラスの教育を受けていたものと同等ともいえるかもしれない。

なぜなら、教育とは、相手の言うことを真摯に聴く態度とか、相手に気を使わず本音を言えるとか、そういう人間関係が大事で、それがあると一気に効果は爆増する。家庭内で24時間それが行われていたら、それはプライスレスな大変貴重な経験となる。

つまり、表面的には年収150万家庭で、親父失踪という恵まれない環境から、努力や才能だけで突出したという美談み見えるが、その背景をよくみれば、奇跡的に素晴らしくよい偶然的な環境が整備されていた、とも捉えることができる。もちろん、人間の心理に影響を与える要素は変数が多く、それらが相互に影響しあっているので、法則化するのは不可能だが、今述べたような見方をすれば、生得的生後的環境に恵まれていないとはいえないだろう。

各ゲームで必要な能力はほぼ決まっている

人間社会は無数のゲームから成り立ち、ゲームには序列がある

人間社会は、無数のゲームが同時に繰り広げられており、その無数のゲームの中で、最強の二大ゲームが、「権力ゲーム」「財産ゲーム」である。この2つが無数のゲームの中で断トツに強く、トップ2の序列。

その他の、昆虫に詳しいゲームとか、けん玉が上手とかいう小さなゲームもあり、それはそれなりに、そのゲーム参加者から尊敬は得られるものの、二大ゲームからすれば、小さくしょうもないものにも見られてしまいがちだ。これは、ジャーナリストの故・立花隆さんの世界観である。

これは人間社会の本質であろう。私もこの人間社会をそのように捉えている。

人生を勝ち負けで判断するような浅い考えは一切ないが、一人の実存的な生において、ある程度の承認を得るため、上述の意味でどれかのゲームで勝つ必要はあるだろう。無論、序列の高いゲームで勝つほうがよいが、それは競争が激しい。

各ゲームで必要な能力はほぼ決まっている

やっかいなことは、各ゲームで必要な能力はほぼ決まっている、ということ。
例えば、財産ゲームで勝つには、ビジネスで勝てばいい。そして、ビジネスで勝つために重要な要素は、次のようなものがある。

  • コミュニケーション能力

  • 人的なネットワーク

  • 資本金

  • 自己投資金

  • 専門性

  • 素直さ

上述の通り、人は生得的偶然性と生後的偶然性に大きな影響を受けて、気づいたら、何百とある能力について、得意なもの苦手なものがある。人それぞれバラバラだ。
しかし、ビジネスというゲームで有利な能力というのは、固定的であるから、そこに偶然強みを持つ人間は、このゲームで勝ちやすいだろう。

世の中には、無数のゲームがあるから、気づいたら持っていた偶然的な能力が活かされるゲームもあるだろうが、そのゲームが社会的に序列の高いものである保証はない。

ただ、それも動いている

しかし、そういう各ゲームで勝つための要素は、決まっているものであるが、動いてもいる。昭和と令和で、ビジネスの世界で有利な素質はまったく異なったものになっているのは明らか。

だから何か

以上、気づいたら持っている能力の偶然性と、社会にあるゲームの固定性を述べた。

努力をすれば、不利な状況から、勝つこともできるだろう。自分が成功することで、不遇の要素として解釈されていたものが、実は与えられた幸運に変えることもできる。予定説を前提にした、カルヴァン派のように自分が選ばれたものだと信じるという方向。

それに、そもそも社会がそんなゲームで成り立っているという見方自体を取る必要もない。


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