多様性をファッションとして消費しない
多様性をファッションとして消費しない。
これ、誰が言っていたか忘れてしまったのだが、
多様性を重視していると言いつつ、外国人社員をドヤ顔で雇っている会社。
その社長が言う典型的な言い分が「優秀だったから、国籍など関係なく雇った」というもの。
こういうのは、「優秀である」とか「生産性が高い」とか、そういうわかりやすい側面しか見ておらず、その背後の顔や人生のような個性は見られていない。
単純な、合理的な経営判断でしかない。
だから、わかりやすい軸に収めないことが重要だ。
と、
誰かが言っていた。
たしかに、そうだと思う。
もちろん、グローバル資本主義の競争で、高度なプロダクトを作るなら、「優秀な」外国人を連れてくるのも重要だろう。
では、この批判のポイントはなんだろうか?
これを主張していた人は、その理由を述べていなかったが、
私は、そういう目でしか見られないで働くことには限界がある、ということだ。
そういう一部の具体的な能力だけを売ることで得られるのは、「お金」だけしかない。
つまり、わかりやすい指標で売買できる仕事というのは、いくら難易度が高くても、給料が高くても、代替可能なのだ。
それゆえ、「なぜ、おれがやるべきか」という問いに答えることができない。
一部の能力だけではなく、全人格を考慮して、「お前にしかできない仕事」でないと、会社にとっても、働き手にとっても持続性がない。
でも、そんな仕事があるのだろうか?
そんな仕事なかなかない。
そもそも、一人の人間にとって、
何かやりたいことがある
そして、それを仕事という形式で行うことが最適
であるということが稀。
こういうとこから考えていくと、より本質に近づけると思う。
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