(#やさしさってなんだろう)

 #やさしさってなんだろう
というタグがあった

このタグを見かけてからちまちま考えていた
それで(最近自分がこの課題に何度も直面したということもあるけど)
やさしさ、というもののひとつのかたち、は
「ひとの気持ちをなかったことにしない」
ということかな、と思った

「理解できるか、できないか」
「共感できるか、できないか」
「相手の主張を信じられるか」
「助けられるか、助けられないか」
「適切な支援ができるか」
というようなことは、知識や経験や技術に大きく左右されると思うのだけど

たとえば
「苦しい」「ムカつく」「憎い」「しんどい」「さびしい」
と云っているひとがいるとき
「苦しいんだな」「しんどいんだな」
と思うこと
もっとこまかく云えば、
そのひとの話のすべてを信じることはできなくても
「苦しいんだな」
という、「感情のところだけは信じる」こと
心のなかの測れないところだけは信じること
それがいまのわたしの思う「やさしさ」かなあと思った

  *

でも、「相手の気持だけは信じる」ということも、突き詰めれば技術なのかもしれない
「感じ方の技術」のようなものだ
気持「だけは」というところが難しいと思う

ほかのひとの話を聞いていると、人は、
「自分ならそうは思わない」
「わたしだったらそんなことにならない」
「私だってしんどい」
「自分の人生にはこんなことがあったな」
「似たような人、知ってるな」
など、など、いろんなことを考えるものだと思う

脳はそういうふうにできていると思う
知覚したら、連想して、比較して、自分の体験のなかに位置づける
人間はそういうふうに世界と関係して、生きていると思う

「連想して、比較して」自分の体験や知識とつながった部分なら、よい気持で受け入れられる
というのが普通だと思う
それが「共感」とか「理解」という現象なんじゃないかと思う

人間は、──もっとひろく云えば、生きものは、
脳のなかみ(感覚や知覚や認知や思考や感情)を共有できない以上、
たとえ同じ場所で生活をして、同じものを見て聞いていてさえ、まったく違う体験をしているはずだ
生まれつきの五感のするどさも、体力も、育てられ方も、いままでの体験も、知識も、いまどんな条件で暮らしているかということも、みんなちがう

たとえ同じ場所にいても、同じ情報に触れても、みんな「自分の体験」のなかでしか語れないし、思えないし、感じられない

だから、たとえば、
信じられないような話や、聞くのも耐えがたいような言葉を聞くことがあっても
腹の立つ話、自分への攻撃に聞こえる話、
大げさな話、つまらない話、
そういうものも全部、そのひとの体験のなかから生まれて、そのひとだけの歴史が重なって、いま自分の眼の前に現れている

そういうふうに感じられなければ、
「相手の気持だけは信じる」
ということは難しいかもしれない、と思う

そういう気持のないまま、ただ相手の話をすべて受け入れたり認めたり信じたりしようと努力したら、
傷ついたり、疲れ果てたり、苦しんだり、相手の話を自分の価値観に合うように歪めたり、してしまうだろう

わたしとあなたとは、まったくちがう世界のなかを生きてきて、いま喋ったり、うごいたり、考えたり、感じたりしている、ということ
それは自分も他人も同じ、わたしもそうだし、眼の前にいるこのひともそうなんだ、ということ

そういうふうに感じられるための、技術や経験や知識の集大成が、「やさしさ」なのかもしれない

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