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見えなかったものが見えてくるマンガ『やさしく、つよく、おもしろく』

父親になって気がついたのは、子供の感受性のすばらしさだ。

うちの4歳の息子は、保育園の送り迎えのときにときどき「抱っこ」をせがむ。
身長は100cmを超え、体重は17kgくらいあるので、正直「抱っこはかんべんして」と思っていた。

でも、昨日発売されたながしまひろみさんのマンガ『やさしく、つよく、おもしろく』を読んで、あの抱っこは彼なりのシグナルだったのかなと思うようになった。

ながしまさんのマンガは、ほぼ日の糸井さんの言葉を出発点として描かれている。
世界の危機を救う話でも、運命の相手に出会う話でもない。
なんてことない日常の、母と娘の会話がほとんどだ。
ただ、不思議なほどその会話に引き込まれてしまう。
こんな気持ちにさせるマンガを、ぼくはほかに知らない。

そのひとつのシーンに、先ほどの「抱っこをせがむ」シーンがある。

主人公の女の子ゆきちゃんが、沈む夕陽と商店街の風景にさみしさを覚え、お母さんに抱っこをせがむ。
うちの息子も、保育園に向かって出発した朝の家の前で、保育園から帰ってくる夕方の商店街で、抱っこをせがむ。
パパとママがいる家を出て保育園で過ごす1日を前に、さみしさを覚えたのかもしれない。
友達と楽しく過ごした保育園を離れることに、さみしさを覚えたのかもしれない。
だから、抱っこをせがむのかもしれない。

ぼくは、そのさみしさをどこかで感じでいたような気がする。
ぼく自身がおとなになってからどこかで感じたさみしさかもしれないし、ぼくが子供の頃に感じたさみしさかもしれない。

子供の頃に感じていたとしたら、そのときに「抱っこして」とお願いできていただろうか。
おとなになって感じていたとしたら、そのさみしさと向き合えていただろうか。


宇多田ヒカルさんが、以前「SONGS」というテレビ番組で子育てについてこう話していた。

親になって自分の子供を見ていると、自分が覚えていなかった3歳までの「空白の期間」が見えてきた。

「三つ子の魂百まで」と言うように、幼少期の体験は人生の方向性をゆるやかに決めていく。
一方で、その方向性が決まっていく過程について、ぼくは覚えていない。宇多田ヒカルさんが話す「子供を見ることで見えてきた」がおもしろいのは、見えなかった過程が見えたからだと思う。

ながしまさんの本にも、その「見えなかったものが見えてくる」感覚がある。
それは、みんなで食べるお弁当のおいしさだったり、「おれも」と言い合える友達の安心感だったり、「どっちでもいい」と言える幸せだったり、子供の頃には感じていた何かだ。

ながしまさんのマンガは、ほぼ日のサイトで全部読んでいた。
本を手にして、読んでみて、「この話は…知らない」が思ったよりたくさんあって驚いた。
描き下ろした作品が入っていたこともあるけど、紙に印刷されたことで作品との距離感が変わった気がした。
だから、読んだことあるはずの話のなかに、気づけなかった感情や意思を見つけることができた。
知らない話かのように、ドキドキしながらページをめくることができた。

ぼくは、この作品を今後も読み返すだろう。
できたら、子供の誕生日ごとに本棚から取り出せたら、素敵だなと思う。

たぶん、読み返すたびに新しい発見がある。
見えてなかった何かが、見えてくる気がする。
それは、人生を豊かにしてくれる何かだと思うのだ。


作品の魅力について、丸善ラゾーナ川崎店の書店員さんがすばらしい書評を書いています。作品の内容が気になる方は、こちらも参考にしてみてください。


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