三日坊主にならなかっただけのお前が言うなという話
近所のスーパーで買った「手羽トロ」がおいしかった。
手羽トロは、手羽元のさらに付け根の部位で、イメージとしては鶏の肩にあたる部分らしい。100グラム78円とお手頃で、噛むとジュワッと旨味が広がった。カレーにして、家族みんなでガシガシと食べた。こういう安くておいしい「掘り出し物」が見つかると、ぼくはうれしくなってしまう。
3日間ほどnoteを書き続けて思うのは、書くことはこういう小さな発見を大事にできるということだ。
そもそもの始まりは、毎日noteを書いてみようと決めたことだ。365日、続けてみたらどうなるのかと思ったからだ。
なので、書き続けるためには毎日なにかしらの材料がないかと探すようになった。これは、今晩のメニューは何にしようかと冷蔵庫の中身を気にすることと、ちょっと似てる。
そして、たいていの冷蔵庫にはA5ランクの霜降り肉もトリュフもフォアグラもない。肉や魚があれば良いほうで、だいたいはありものでなんとかしようとひねり出すものだ。それが、毎日書くということだと思う。
一方で、高級食材と言えるような話の材料は、Twitterを開くといくらでも流れてくる。数百、数千といった反響があるお話は、高級食材をベテランシェフが腕によりをかけたからできるものだ。でも、それが次々と目の前を流れていくので、自分が精一杯がんばった料理がみすぼらしく感じてしまう。だから、書き続けることが難しくなるんじゃないかと思う。
「どうせ誰も見てないんだから、書き散らせ」
noteフェスで、サクちゃんこと桜林直子さんが言っていた言葉だ。聞いたとき、なんだか背中を押してもらった感じがしたのを覚えている。
毎日、書き散らしていくと、自分の感情の動きに対して敏感になれる。
なぜ、おもしろいと感じたのか?
なぜ、人に伝えたいのだろうか?
その「伝えたい」は本当に本当だろうか?
書き続けることは、自分にそんな問いを繰り返すことだ。
その問いを軽々と飛び越える感情に出会ったとき、うれしくなる。自信を持って「本当にそうだ」と主張できる。
おもしろかった、笑った、泣けた、考えさせられた…そういう言葉が、迷いなく書ける。だから、毎日書くことはやめられなくなるのだろう。
なんか、三日坊主にならなかっただけのお前が言うなという話だけど、ぼくはもう少し書き続けてみようと思う。
見てるのと、やってみるのとは違う。
とりあえず、それに気づけただけでもnoteを3日続けてよかった。
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