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惣(右脳)という共同体意識

-「人間は自然の一部以外のなにものでもない」~分け隔てなくささえあう
「おらが産まれし土地におらが大木がお天道様の恩恵で根を張っておらが最期は一葉として幹の肥やしになり年輪を刻めることが何よりじゃ」

-“惣”とは、中世の自治的な組織の総称。特に村落共同体の運営機関としての惣が代表的である。惣の字はすべて、全体の意味の国字であるが,中世には自治的な団体や地域に冠して用いることが多い。例えば惣国,惣郷,惣荘,惣村,惣百姓,惣寺(山)などの語があり,それぞれの単位で寄合(所属)を持ち,その寄合の構成員の総意によって事を決した。そして中世後期には,その団体や執行機関自体を“惣”と呼ぶようになった。

今世紀は、人工物と自然の調和の時代であり、自然と共生していくことが益々重要な課題となってきます。地球本来の物質循環系の輪に戻らないということで、20世紀に入って排出された土に還らない廃棄物の量は、それ以前の比ではありません。 20世紀は、いかに人類が自然を征服するかという人間一元主義と呼ぶべき破壊の時代でした。

我が国では、明治以降の近代化の波によって町並みが変容し、社会システムが変貌しました。
人類本意の傲慢な素材であるアスファルトやコンクリートが都会を席巻し、挙句の果てに地方にまでその津波が押しよせました。
その結果、生活や価値観が一変し、大切にしてきた絆や鎮守の森を喪失させ、瓦屋根が屋上、縁側がベランダとなり、道をアスファルトで被い自動車が占領し、長屋が公団住宅となって商店街はやがてシャッターで閉じられ、笑い声が消え去り、コンクリートジャングルに重い鉄の扉がバタンと閉じられる音だけが反響する無機的空間が生まれました。

1950年代前半からの「団地化」によって伝統的な「地域共同体」を崩壊させ、サラリーマンの「核家族」を成立させました、現在においては個人化となって一人部屋に引きこもってしまいました。

昔の子供たちは、地域共同体に放り込まれ、ムラの子で伸び伸びと育っていましたが、団地という狭い箱の中で母親によって過保護に育てられることになります。この分断によって、家族がそれぞれ個室化していきました。家族に対する気遣いなど考える余裕もなく「家族の団欒」が死語となり、家族共同体を崩壊させることになってしまいました。
繋がりを断ち切った故の孤独感が居場所を無くして「コンビニ」へ駆け込むことになります。
これにより「一見気楽な誰の目にもさらされない孤独空間」ができ、道徳概念までもが崩壊してゆきます。
所謂、援助交際する女子高生やホストにはまって貢ぐのを生き甲斐にする女性は社会システムの変貌に巻き込まれたのであってある意味において犠牲者であり、価値観の道徳論を押し付けても説得力に欠けると言わざるを得ないのではないでしょうか。

つまり、人間は環境から学習する生き物であるのだから社会システムそのものを整備することが必要不可欠であるのではないでしょうか。

では、どのようにわれわれは、整備してゆけばいいのでしょうか。
そのヒントが幕末まで続いた木の文化の結晶体である「町並み」とその地縁組織の“惣”という共同体意識に学ぶべきものがいっぱい詰まっていると思います。
一本の大樹の葉っぱで元は一つであり、母なる大地に根を下ろして太陽の恩恵を受けて繋がっているんだという精神。

かつて、建築史家の伊藤ていじ氏は「建設のために民家をこわしてよいとする者は、人間の努力に対する軽蔑であると同時に、(中略)自らの現在の努力への誠実さを疑わせるものである。(中略)もし誇り高い現代人としての自尊心をもっているならば、祖先の郷愁としてではなくして、むしろ輝かしい構想力に満ちた未来への現代的象徴として民家を保存すべきであるとかんがえる。」と団地化していく社会システムに対し警鐘を打ち鳴らしました。
それに耳を貸すことなく高度成長に乗じてニュータウン化を促し、無機質なアスファルトやコンクリート覆いかぶせ自然を征服しようとしました。

縄文人が作った環濠集落であるムラには、イエが建ち並び、外には、ハラっぱが広がって、人工的なものではなく自然的秩序が維持されている縄文人の共同の食糧庫であり、生活に必要な道具の材料もハうにいっぱ いあってそれで道具を作っていたわけです。
煮炊きに使われていた土器の内側のコゲや水気の多い地層から出土したもの、貝塚などの分析によると、多種多様の植物や木の実そして貝や動物などを食べていたことがわかっています。そこには、所有意識など微塵もなくそのムラに所属していることと太陽と自然への感謝のココロ以外何もありませんでした。

わが国は資源小国といわれますが、国土の七割が森林であり照葉樹林生態系で多種多様な動植物や森林資源の上では資源大国であります。
この資源をいかにして縄文人の様に人工物と自然を調和させうる素材として有効利用していくかが社会システムの整備につながり、国家の命運を握っているのではないかと思います。オーストラリアが実践している緑の廃棄物は全て堆肥化、炭化、チップ化、薪にするなどいずれかの手法で人工的に土に還元する速度を早めてすべて次に繋がるような形を作っています。

大手住宅ハウスメーカーは、民間企業であり、利益至上主義でコストを優先させ外材を使わざるをえません。
その結果、消費者にとっては、住宅の耐用年数が25年という短いものであり、また、山林は荒れ山状態になってしまうというジレンマに陥っています。
この現状を「国家百年の大計」として受け止め、目先のことではなく先をみる目で計画し、何よりもその事を最優先課題にしなければ夢も希望もない国になってしまいます。今後、観光立国としての道を歩んでいくならば、左脳的思考の究極のAIへの警鐘として我が国の一地方の古い町並みが残る今井町から人間本来の右脳的縄文人思考を発信していくことが僭越ながら使命であると思います。

宮沢賢治の銀河鉄道の夜の中で「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と出てきますが、今はセカイ系なんて言ったりしますけど、私とあなたの関係が世界全体の危機と繋がっているという物語設定、エヴァンゲリオンがそうですね、「すべてが一つのスープに溶け込んでいくときに他者の苦しみがなくなるんだよ」というセリフが出てくるんですが、皆が心で透明な関係を結び合えるかをテーマにしています。

また、団地の建て替えと東日本大震災地の復興が同時進行しなければならない今、消費社会がもたらした使い捨て文化を改め、もう一度モノを大切にしエイジングを楽しむ文化を蘇らせ、地域共同体そして、家族の絆(きずな)を再構築させるチャンスであり、力にしていかねばならないのではないでしょうか。
地域固有の文化をもつ地方こそが閉塞感を解き放つ希望の鐘を打ち鳴らすものであると信じて疑いません。そして、この試練を乗り越えたとき循環可能な共生社会が実現すると確信しています。

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