廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト⑯瀧廉太郎との思い出を書き残した幸田幸

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 瀧廉太郎さんの伝記などで大きな紙幅を占めるのが、幸田(安藤)幸(1878-1963)です。実際、廉太郎さんの存命中は海外渡航に絡みライバルに擬せられていましたし、共演することも多い二人でした。そのため、『廉太郎ノオト』に関しても、かなり彼女とのエピソードに紙幅を割きました。

 本書の劇中年間終了後、幸さんはドイツから帰国、それとほぼ同時に英文学者の安藤勝一郎と結婚してからは、子供を育てつつ、後進のヴァイオリニストの育成に努めます。その功績により、日本で最初の文化功労者に選出されます。
 なお、芥川賞を蹴った作家として知られ、ワーグナーの日本受容に多大な影響を及ぼした高木卓は、幸の子供です。

 そんな幸さんですが、実は瀧廉太郎さんに関するエッセイを遺しています。実を言うと、『廉太郎ノオト』における作中描写の多くはこのエッセイを参考にしているのですが(劇中にあるテニス描写や生徒監”草野”もこのエッセイが出典です)、このエッセイを読むと、なぜか幸さんはしきりに廉太郎さんと親しくなかったように書いています。でもなあ……、どうも当時の様子をうかがうに、かなり学校内で学生の関わりがあったようですし(年次の違う東くめさんと廉太郎さんが、やはり年次の違う鈴木毅一さんの仲立ちによって『幼稚園唱歌』を編んでいるなどはその一例)、合唱などの講義もあったはずですし、二人とも研究生、つまり東京音楽学校の教師予備生だった時代もあるので、全くの無関係とはとても思えず……。それに、幸さんがドイツ留学中、やはりドイツに留学しに来た廉太郎さんとともにセッションをしたという実話もあるので、いやいや、親しくなかったなんていうのはうそでしょう、という気がしないでもありません。
 いえ、決して恋愛関係にあったといいたいわけではありません。むしろ、恋愛関係になかったからこそ、殊更に無関係を装っているのかしらんという気がしてなりません。
 幸さんは明治の女性です。当時は女性の貞操がやかましく言われた時代、少しでも自らの貞操が疑われるのが嫌だったという風にわたしは推測しています(ではなぜ同時代の環さんが廉太郎さんに口説かれた話をしたのかという話になりますが、彼女は廉太郎さんの死後、世界を股に掛けた活躍をします。西洋ナイズされたことで、色恋への考え方に対してだいぶ自由だったという推理が出来ます)。

 と、ここまで資料が出揃った中、幸さんをどう描くべきか、少し悩んだのです。
 あくまでわたしが書くべきは小説、廉太郎さんと幸さんに恋愛フラグを立てたとしても何の問題もありません。
 ただ、ちょっとそれは違うような気がしたのですよね。
 幸さんのエッセイは、一人の青年である廉太郎さんではなくて、音楽家瀧廉太郎への哀悼に満ちている気がしたのです。

「あんなにムジカリッシュな人はいなかった」

 ムジカリッシュ。音楽家的な、みたいな意味合いでしょうか。彼女のエッセイにあるこの言葉を見たとき、幸さんの廉太郎さんへのスタンスを理解した気がしたのです。
 そうした意味では、幸さんもまた「ムジカリッシュ」な人だったといえるのかなあと思い、本書のような、「音楽バカ」な幸像となりました。

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