廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト⑰瀧廉太郎さんとバッハ

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 実は、『廉太郎ノオト』で描きたかったものの一つに、ピアニストとしての瀧廉太郎があります。
 当時の新聞記事などを見ると、廉太郎さんがピアニストとして認知されていたことが分かります。もちろん当時はまだ作曲した曲を発表する場も多くなく、また、西洋の曲の紹介に時を費やしていた気配もあるので、ある意味で仕方がないことと言えます。当時の廉太郎さんは「ピアニスト」だったのです。
 ではなぜ、現代のわたしたちは彼のことを作曲家だと思っているのかというと……。
 演奏というものの残りにくさのゆえです。
 現代でこそ記録媒体が発達していますが、明治期、演奏家の業前を遺すものは評判記以外ないといっても過言ではありません。けれど、言葉による評判は、所詮忘れ去られていくもの、次々に現れる新星たちによる現代の調べによって押し流され、過去の産物になってゆくものなのです。もし、廉太郎さんが純粋ピアニストであったなら、おそらくその実績は忘れ去られてしまっていたことでしょう(例を挙げれば、当時一流のバイオリニストであった幸田延・幸姉妹には、現代、廉太郎さんほどの知名度はありませんね)。

 実は、ピアニスト瀧廉太郎の存在を知った時、わたしはふと、バッハのことを思い出したのです。
 中学校の授業の時、音楽の先生から「バッハはかつて忘れられていた音楽家だった」という話を聞いていたのです。
 バッハは演奏家として知られていたために一時は埋もれていたものの、彼の作曲が十九世紀に再評価されることで、音楽史に名を轟かせるようになった、という話です。
 本編でもちらりと述べていますが、バッハはドイツ音楽の成立前に活動していた人でありながら、ドイツ音楽の遠祖とされ、称揚された歴史があるのです。

 この話を聞いた時、「もしかして?」と思ったのです。
 バッハがドイツ音楽の遠祖として称揚されたように、瀧廉太郎という人物もある意味で日本西洋音楽のイコンとして称揚された存在なのではないか、と。
 わたしが廉太郎さんを普通の(とはいっても相当の努力家ですけど)青年に描いた理由は、ざっとこの辺りにあります。実は、瀧廉太郎は、日本西洋音楽史の揺籃期におけるイコンであって、実像との間に微妙な乖離があるのではないか。そして、その乖離を小説にしたら面白いのではないか、と。

 わたしは「瀧廉太郎陰謀論」に対して「面白くない」と書いたのも、この辺りが理由です。「廉太郎陰謀論」の前提である「明治の楽聖」としての廉太郎像は、あくまで偶像にすぎないのです。わたしが面白いと思うのは、「明治の楽聖」瀧廉太郎ではなく、明治の時代の風を受け、悩みながらピアノを弾き、そして作曲をした、一人の青年、瀧廉太郎さんなのです。

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