小さな物語の時代に生きる作家のひとりごと
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哲学者(というよりは現代思想家といったほうが適当でしょうか)リオタールが1979年に「大きな物語/小さな物語」という概念を提唱しました。すごく簡単に言うと、それまで、人類は宗教的価値や政治的価値といったイデオロギーである大きな物語が優越していたものの、現代社会が進展するに従い、むしろ個人の興味や人生といった小さな物語が存在感を持ちつつあり、やがては大きな物語は役割を終えるだろう(=大きな物語の死)というのが「大きな物語/小さな物語」論における骨子だそうです。
この考え方が数千年に亘るパースペクティブにおさまるような説かどうかはさておき、我々のミクロな実感においては的を射ている気がしないでもありません。確かに我々の日本においては個人の趣味と化したイデオロギー言説がまるで亡霊のように彷徨っているようにも見えますし、実際に我々はイデオロギーにかしずいてはおらず、あまたあるイデオロギーを自らが選び取り、個人の人生をそれぞれに生きている、そんな気がしてなりません。
とはいえ、現代の小さな物語は、結局のところ資本主義という巨鯨にも似た大きな物語の腹の中にぷかぷか浮いている木板のような存在なのかもしれません。実際、小さな物語の中に生きる我々もまた、社会を構成する以上は何らかのつながりが必要で、今、そのつながりは資本主義が果たしている気がしないでもありません。
わたしは、どうなんだろうねそれ、という気がしています。
資本主義は確かに内心の自由にそこまで抵触しないという意味において無色です。けれど、小さな物語同士を繋ぎ止めるロープとしては、あまりに冷たすぎ、無機質すぎる気がするのはわたしだけでしょうか。
恐らく、現代の小説に求められているのは、小さな物語同士を緩やかに結ぶ、温かな係留材としての役割なのだろうなあ、というのが、今のわたしの暫定的な考えであります。
たぶん、小説はどんなに力を尽くしても大きな物語にはなりえない。きっと、人と人とをソフトに結びつける何かにしかなりえないし、そこから飛び出してしまうと小説ではない何か、たとえば歴史書であったり、宗教書であったり――になってしまうのだろう、そんな気がしています。
そして多分、現代に必要とされているのは、小説であったり映画であったり漫画であったりイラストであったり――。とにかく、創作物が作り上げる、緩やかな連帯なのだろう。
そんな大ぼらを吹きつつ、今日もわたしは小説を書いています。
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