雑記 904 3.11と美枝さん

画像1 2011年3月11日、東京でも、家の中で立っていられないほどの揺れを感じ、その時の家の扉や壁やが揺れる音は経験したことのない恐ろしい音だった。テレビをつけると、各地の大変な様子が映し出され、そして驚いたことに、宮古の美枝さんの実家は跡形もなく流されてなくなっていた。
画像2 年老いた母親は足が悪く、歩いては遠くまで行けない。車の運転は出来たから、逃げられたのかもしれない。そう信じるしかない。携帯電話は通じず、向こうからの連絡もなく、時は過ぎ、テレビでは、ただ、ただ、真っ平らになった敷地だけが画面に映されているのだった。
画像3 それから数日経ち、1週間経ち、母親との連絡はつかず、どこかで無事でいてほしいと願うばかりだった。そんな折、美枝さんのご主人から、美枝さんが入院したという連絡が来た。その数日前には、どこのスーパーに行っても米がないので貸して、という連絡が来たばかりで、少し入院したら、戻ってくると思っていた。地震の後は何もかも混乱した状態で、母親の安否は不明。地震から2週間経ち、朝、印刷屋に出かけた時、町内の回覧板が回ってきて、朝早く美枝さんが亡くなったと書いてあるのを見て、衝撃を受けた。
画像4 何故?たくさんの方が亡くなり、その方達があの世に行くのに、一緒に行ってほしい、と優しい美枝さんを道連れにした気がしてならない。4月に入ってから美枝さんの母上は避難所に無事でいることが分かったが、それを知りたかった本人はもうこの世にいない。その後、彼女が育てていた白いクリスマスローズのひと鉢を貰い受けた。毎年3月の地震があった頃に花をつけ、私はそれを切って仏前に供えに行く。会いたい。何故行ってしまったのか、それも聞きたい。今日は大変な強風だった。別れはいつも辛い。思い出しても辛い。
画像5 そんなに遠くない将来、私もあちらに行くから会えるね、と仏前で、言う。あなたはいつまで若くていいわね。だって、もう、13年も、その時のままなんだから。帰りがけ、野方駅の踏切で、ドラえもんGOが目の前を走り去った。何となく、そんな形で、また会おうね、と返事をもらったように感じた。

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