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【数理的溢れ話8パス目】数理処理の基礎の基礎?

以下の投稿で「(視野外における)数理と現実の思わぬ形での連続性」に目覚めた感があります。

もちろん「実際に調べてみたら何の事もなかった」ケースも続出するでしょうが、視野を広げる為にも、特に他人と異なる独自の視座を獲得するには、この種の試みが欠かせない訳です。その試みの最新版が以下…

コロナ集団接種会場における接種者の拘束時間問題

コロナ全盛期、2021年から実施された多くの集団接種会場において接種者に胸に貼るステッカーを配布していました。

①まず入口での検温で熱がない事を確認するのだが、あちこちで定期的に反ワク派っぽい人が検温を拒絶しつ押し入ろうとしてスタッフにつまみ出されていた。

  • 「検温に合格した人しか接種会場に入れない」は「ドレスコードに合格しないとレストランやディスコに入れない」とか「持ち物検索でカメラの類を所持してない事を確認しないとコンサート会場に入れない」と同様、施設管理権の行使。

  • それ自体は私有権の一部で、究極的には条件を事前に明示したり当該者に退去の説明する必要すらない。

ある部屋の所有者が誰かに対して「私の部屋から出て行って‼︎」と宣言したら、その人は「(例え事前に退去条件が明文的に示されてなくても)出て行かなきゃいけない」この理屈の法的源泉でもある。

②このタイプの人は家に送られてきた書類を突き付けて「ここに「入場に際して検温が必要」なんて一文字も書いてないだろ? 何の権限があって検温しようなんて抜かしやがる?」とか「何が施設管理権だ‼︎ お前らは退去勧告が出来るだけで、それに従うかどうかは、こっちが決める事だ‼︎」とドヤ顔で豪語して居直ろうとするのが常だったが、法理解が中途半端。

  • 「不特定多数に制限する場合、その内容を文書等の方法で広報掲出する事もできる」とあるが「明文化して事前に掲示した内容しか制限出来ない」訳ではない。そしてその条件を定めるのは、あくまで施設側。「へぇ、お前はこれが危険行為に見えるのか。そんなの通らねぇよ。誰の目から見たってオレ達は安全に遊んでるだけさ」と豪語して子供も沢山遊んでる広場でスケボーに乗って飛び跳ね回る若造どもがよくこねる理屈だが、それこそ通らない。

  • 実際のに警告を受けた当事者に法的に保証された選択肢は「施設管理者(および施設管理権を委託されたスタッフ)の指示に従って入場条件を満たし会場に入れてもらう」と「あくまで指示に従う事を拒絶して退去する」の二択のみ。

  • 確かに施設管理権者側には退去勧告しか出来ないが、それを無視された時点で不退去罪が成立し、警察に対応を引き継ぐ事が出来る。

当該施設の治安を保持する為に社会一般的に認められる権利は、憲法に規定される基本的人権に抵触しない程度で、刑法等の現行法に抵触しない範囲での人や物の行為・言動を制限するものである。

又これらを制限する場合対象とする者がいる場合にあっては具体的にその制限する内容を勧告する、不特定多数に制限する場合はその内容を文書等の方法で広報掲出する事により権限を行使できるものである。 具体的に言うと、

①施設管理権原者が入場立ち入りを拒否した者に対して施設外へ退去を命じること(対象者が命令に従わない場合は不退去罪が成立し、警察に介入を求める事が出来る)
例:過去に施設内で不正または違法行為をした者の出入り制限

②施設管理権原者が施設管理上著しい危険或いは迷惑と認めた行為を制限すること
例:公園等での球技の禁止、展望台の無いオフィスビル内等での、エレベーターの撮影禁止 (アナウンスの録音禁止の場所もある)

③施設管理権原者が施設の治安維持上必要と認めた範囲での物品の持ち込み制限
例:引火性危険物を集積貯蔵する施設への火気物品の持ち込み制限

④施設の円滑な運営の妨げとなる諸行為の制限
例:示威行進等の制限

上掲Wikipedia「施設管理権」施設管理権に於ける治安を保持する為諸権限について

実際、こういうケースでは最後に「警察に対応を引き継ぎましょうか?」と告げると途端に腰砕けになって引き下がる場合がほとんど。概ねその時点までに入場待ちの人々が施設外に溢れ、その全員から殺意すら感じられる白眼視を向けられているので「引き際」と判断した場合も少なくなかったと推測されている。

とはいえ、そうやって接種会場の入場事務を数分ないしは数十分麻痺させると彼らの仲間うちで「権力の横暴に抵抗した武勇伝」ともてはやされて株が上がった様で模倣者が次々と現れ(ただし匿名アカウントの自己申告なので実体は不明)とうとう神真都Qの様に一線を超えて摘発される反ワク団体まで現れてしまったという次第。

似非リベラルの方々もしばしばこのタイプの理屈を振りかざしますが、そもそも人類が施設管理権の概念に到達するまでの歴史を知らないとしかいえません。

①どの国でも概ね最初にに主権の実体としてあったのは、細部の相違はともかく(それ自体の定義が中々に難しい)中世段階における「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」いわゆる(これも定義がなかなかに難しい)封建体制であったと考えられる。歴史のこの時点においては、概ね(自らを主に直轄領経営によって養う)国王や宗教組織の様な超越的権威は、せいぜいかかる寄せ集め世帯における在地有力者の権利を安堵したり、絶えざる境界紛争を恣意的に有利に運ぶ為のに使われる道具的存在に過ぎなかった。

②しかしながら技術が進歩して次第に「主権国家の協調体制=国体維持に十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税で養う体制同士の相互牽制状態」が台頭すると世界のあちこちで主客転倒が発生。この戦いが伝統的在地有力者の寄せ集め世帯の敗北(概ね内ゲバによる自滅)に終わって主権国家が歴史的主体となっていく過程は、英国においては(百年戦争(1337年/1339年~1453年)の敗戦責任の押し付け合いに端を発する)薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)、フランスにおいては公益同盟戦争(1464年~1465年)やフロンドの乱(1648年~1653年)に典型的な形で顕現したとされる。

公益同盟戦争

アメリカの場合

アメリカにおいては「英国のヨーマン(自由農民)を理想視し、奴隷制農場と家父長制の伝統を中央集権の影響から守ろうとする」ジェファーソン流民主主義を掲げた南部領主達が敗北した南北戦争(1861年~1865年)がこの歴史的展開に対応すると考えられる。

  • 南部農場主の場合、内ゲバによって自滅する以前に動員可動人数で北軍に圧倒的に負けていた。特に工業が発達し鉄道網を使っての補給が容易である一方、手持ち艦隊によって南部沿岸海岸線を終始封鎖し続ける事に成功したのが北軍の最終的勝利に大きく寄与したとされる。とどのつまり最初から結末は決まっていた。それにしては善戦が続けられたのは「南部の生き方を守る」なる大義で団結していたので目的も曖昧なまま動員された北軍兵より士気が高く、さらにその大義に多くの優秀な指揮官が共感して合流したからであった。その一方で所属州の発言力が強く、急拵えの中央政府がそれに振り回される事も多かったという。

  • 皮肉にもその後、敗戦を厳粛に受け止めた南部で黒人差別撤廃が進む一方、「奴隷解放宣言」を強要した北部では当時のまま「黒人の権利拡大を抽象的意味合いでは支持しつつ、目の前に現れたクロンボは侵入者として脊髄反射的に射殺する」差別意識が温存される結果となったという分析も存在する。
    アメリカ都市における黒人差別の定量的分析

日本の場合

日本においては、明治政府によって列強侵略の恐怖に後押しされる形で急ピッチで進められた版籍奉還(1869年)、廃藩置県/藩債処分(1871年)/秩禄処分(1876年)といった一連の近代化政策の反動として起こった士族反乱(1876年~1877年)、とりわけ西南戦争(1877年)における封建的軍隊(不平士族の寄せ集め世帯)に対する鎮台兵(国民からの徴税によって養われる近代的徴兵制に基づく近代的軍隊)の勝利がこれに対応すると考えられる。まとまりの悪い士族反乱がそこを突かれて各個撃破されていった景色も、諸外国の同種の展開に重なる。

  • この時の不平士族側の「日本の未来を守るには、将来も領主(武士)が領民と領土を全人格的に代表し続けていくべきである」なる心境吐露は、政界下野時に西郷隆盛が提出した建白書、中江兆民「三酔客経綸問答(1887年)における南海君の発言などにしっかりと刻印されている。

  • 「三酔客経綸問答」で特に忘れてはならないのが「近代化に際して領主階層(武士)がもはや日本に不要となった理屈は理解した。ならば大陸に送り出してくれ。ただ単に全滅するだけかもしれないし、新たな国を建てるかもしれない。どちらの結末を迎えても日本は得するだけではないか」。我々現代日本人は、いわゆる台湾出兵(1874年)がそうした心境を背景に遂行され、以降の大日本帝国の大陸進出戦略の出発点となった事もまた忘れてはならないのである。

ドイツの場合

不幸にもドイツでは第二次世界大戦に敗戦し、冷戦下の共産主義体制において旧体制の徹底解体が遂行されるまで「プロイセン王国時代から軍人と官僚の供給階層として栄えてきた」ユンカー階層が強い存在感を発揮し続けた。

  • 日本でいうと長州藩や薩摩藩が明治維新後も存続し、中央集権的近代国家体制への移行をあくまで阻み続けてきた感じ?プロイセン王国はドイツ帝国最大の連邦構成国だったので「徳川幕府が存続したので旗本身分が残ってしまった日本」とも考えられそうである。

  • マックス・ウェーバーは「プロテスタント倫理と資本主義の精神」の中でそれとなく彼らの存在を(アメリカにおいては南北戦争途中での奴隷解放宣言によって滅ぼされた)南部奴隷農場主に例えているが(直接名指しで攻撃出来ないもどかしさを感じる)ユンカー階層の方はポーランドからの出稼ぎ小作人を代替労働力として利用する形で農奴解放後ものうのうと生き延びる事に成功している。

  • 第一次世界大戦敗戦による重い賠償金と世界恐慌によって痛めつけられたドイツにおいてNSDAPが曲がりなりにもそれなりの支持を得られたのもまた、非ユンカー階層のユンカー階層に対する伝統的ルサンチマンを巧みに接収しつつ、ユンカー階層自体には存続安堵を伝える二枚舌戦略にあったと考えられている。

  • この構造をちゃんと理解してないと「どうしてNSDAPは「ポーランド人を無知な農奴に戻す」弾圧政策を遂行したのか」理解出来なくなってしまう。

③カール・マルクスは、こうした時代変遷の最中、それまでの「国王と教会の権威に対する徹底抗戦を誓う」急進共和派路線を放棄し、資本主義体制下における資本家と労働者の関係に注目した「経済学批判(1859年)」を発表して歴史にその名を不可逆的な形で刻みつけた訳である。

  • ただし彼の上部構造理論が(絶対王政下における領主の立場を擁護する)重農派経済学者ケネー「経済表」の影響を引き摺って(土地価値説をただスライドさせただけの)労働価値説までしか辿りつけなかったのに対し、「経済学批判」出版当時のマルクスのパトロンだった「社会民主主義の父」フェルデナント・ラッサールは「(産業革命導入の為に)領主が領民と領土を、伝統的組合が商業や工業を全人格的に代表する時代は終わる必要があり、代わって土地購入者がその土地の使用権を独占し、伝統的既得権益者への配慮なしに工業も商業も展開可能な時代が始まった」なる客観的見解に到達。むしろこちらの方が資本主義的現実認識として広まる結果を迎える。

  • 実際、早くも1870年代には早くも「限界効用逓減の法則」に立脚する限界革命を成し遂げた新古典派経済学が登場。マルクスの思想のその部分は(「労働価値説は労働力を生産過程における唯一の希少材とする特殊モデル」と定義される事によって)新理論に発展的に吸収消滅する展開を迎えてしまった訳である。

  • その一方で土地価値説に始まり労働価値説を経た伝統は、最終的に無難な「私有権(土地や設備や機材の所持者がその使用権を独占的に占有し、原則として商業方面や工業方面への転用などに制約を受けてない状態)価値説」に落ち着いたとも見て取れる。

  • 特に日本の場合「職の体系(中世まで伝統的に守られてきた土地の重層支配構造)」の(一円領主=戦国大名の登場などによる)解消が近世段階への移行の条件となった経緯があるので、歴史的にもこちらの考え方の方がはるかに馴染みやすい。

  • とはいえもちろん「私有権価値説」は万能ではなく、必要に応じて調停の必要が生じる。例えば江戸時代を通じて幕府は玉川上水の通船を禁じ続け「商売敵たる馬喰のロビー活動のせい」と陰口を叩かれてきたが、これには上水の水質保全の意味合いもあり、実際明治維新後に新政府が明治3年(1870年)4月に許可を出すと羽村から内藤新宿にかけての船の往来が大変繁盛したものの、たちまち水質が悪化して明治5年(1872年)5月に廃止されている。まさにジョン・スチュワート・ミル「自由論(1859年)」でいう「文明が発達する為には個性と多様性と天才が保障されねばならず、それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」ケースに該当するのはこういう場合なのである。

  • 一方、1848年革命段階で急進共和派の運動家は「財産の私的所有はすべからく悪である。フランス革命では貴族と僧侶がギロチンに掛けられた。今度は商店主や工場主もギロチンに掛けねばならない」なる極論に到達して庶民のの支持を失った(選挙で大敗し、クーデターに失敗し、首謀者の大半が植民地に追放されて壊滅)。

  • もとよりそれが(領主支配を正当化する)土地価値説をひっくり返しただけの(労働者支配を正当化する)労働価値説の限界だった訳であり(魯迅いわく「奴隷と主人の関係を逆転させるだけの革命では奴隷制そのものは廃止出来ない」)、マルクスの思想のこの部分は既にその歴史的役割を終えたとも見て取れる。

こうした歴史的経緯から、欧米の方々の方が一般に「(せっかく長い壮絶な戦いを経て勝ち取ってきた)私有権侵犯への忌避感」が強い印象があります。そもそも海外では「まずは退去勧告から入る」穏便な対応が必ずしも期待出来ず、問答無用でいきなりぶちのめされる事もあるから、という話も。銃所持が認められている国に至っては、いきなり銃を突きつけられる場合すらある訳で…

逆にいえばそれでも平然と乱入してくる連中は「抵抗の結果、怪我人や死者を出したら過剰防衛で訴えられて儲けもの」程度にしか考えてない筋金入りの活動家か、彼らに扇動された狂人(おそらく最近欧米で流行している若者の環境テロはこの類)の場合が多く、日本の様なスペクトラム的境界例が出現し難い環境にあるといえましょう。

そう、ジョン・スチュワート・ミル「自由論(1859年)」における「文明が発達する為には個性と多様性と天才が保障されねばならず、それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」なる章句は、その裏側に込められた「(近代国家成立以前に)領民と領土を全人格的に代表してきた領主的欺瞞の復活を許してはならない」なる強い意志を汲み続けなけらば、容易く形骸化されてしまうのです。例えば、以下は幸村アルトの少女漫画「コレットは死ぬことにした」における冥府での裁判場面…

「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻
「コレットは死ぬことにした」15巻

この話の流れにどうして「統計」概念が登場するか気になった方は、以下の引用をば。

それにつけても古くて新しい難問」水争いを題材に「土地価値説=労働価値説」の問題点の根元まで立ち返って解決策の根本に組み入れる素晴らしい解釈ではありませんか。カール・マルクスも草葉の陰でうんうんとうなづいている気がしてなりません。

  • 実際、彼にとって「領主を庇う重農主義経済学者ケネーの「経済表」の土地価値説をひっくり返しただけの労働価値説なんて、効用価値説に置き換えると(土地に代わって)労働のみを価値の源泉とする特殊な効用均衡モデルに過ぎない」なんて些事はどうでもよくて、本当に警告したかったのは「領主はこうやって領民を騙しにくるから気をつけろ」という話だったのでは?

  • 実際、彼は若い頃「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義体制」の問題点について「(どれほど輔弼する立場の臣下がチェックを厳密にしたとて)領主の遂行する政策は決っして領主が想像可能な範囲を越えられない(それが科学的実証主義や資本主義や議会制民主主義導入を妨げる)」と指摘している。

君主政を支配するのは政治ではなく思いつきであり,思いつきが政治になるのはそれが誰か第三者にチェックされるときである。君主政においてそれをなすことができないとすれば,思いつきは政治にはならない。

「思いつきは,そこでは思いのとおり,まったく移り気で,無分別で,軽蔑的なものかもしれません。思いつきこそ,まさに人民を支配するには十分なものです。人民は国王の意志以外の別の法律など一度として知ることもなかったのですから――転倒した世界が現実のものであれば,プロイセン国王は末永く時代の人間であるだろうとわたしは考えます」

現実が現実のままであるかぎり,およそ時代からずれた世界がこの世のものであるかぎり,それはそれで権力は維持される。しかしそれはいつまで続くのかということである。青年ドイツを含めてプロイセンでは憲法制定運動が長く続いたが,いまだ憲法はできていなかった。しかし,やがてプロイセン国王はプロイセンを彼のたんなる領地ではなく,国家体制にしようとして,政治的意思を表明する。そのとき,彼は図らずもこのプロイセンは,彼の個人的な所有物にすぎないことを表明することになる。

「プロイセン国王は自分の国家であるプロイセン領域の未来の国家基本法に対する彼の決意と心情を表明しました。実際は,国王こそプロイセン体制なのです。彼が唯一の政治的人間です。彼が行うこと,あるいは誰かが彼にさせること,彼が考えること,誰かが彼の口でいわせること,それがプロイセンでは国家が考え,国家が行っていることなのです。したがって,今日国王がこのことをはっきりと表明したというのは,実際彼の功績です」

国王は,政治を独占することで,臣民を実利的な世界に封印する。しかしそれが君主政の本質なら,永遠に臣民は自由を獲得し,政治を行うことなどできない。だから,臣民が自由を獲得すれば,プロイセン体制は崩壊するしかない。理論的には,改革などありえないのである。

的場昭弘「青年マルクスの「革命」観」

こう考えると上掲の「義憤にかられて蜂起した」と称する似非リベラルの方々が未来志向というより「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義的体制」への回帰を志向する懐古主義者に見えてきます。実はジョン・スチュワート・ミルが「文明が発達する為には個性と多様性と天才が保障されねばならず、それを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」なる宣言で牽制しようとしたのも同じタイプの人々であり、実際「赤旗法((1865年-1896年))」制定によって英国自動車産業界は取り返しのつかない規模の大ダメージを被ってしまいました。

ジョン・スチュワート・ミルは「自由論」の中でこう述べている「社会的専制はふつう,政治的圧迫の場合ほど重い刑罰によって支えられてはいないが,はるかに深く生活の細部に食いこんで,魂そのものを奴隷にしてしまい,これから逃れる手段をほとんど残さない」

舟越耿一「「多数者の専制」と民主主義

「自由論」と同年にマルクスが発表した「経済学批判」のコンセプト「我々が自由意志や個性と信じているものは、実際には社会的圧力によって型抜きされた量産既製品に過ぎない」と重なってくるものがありますね。どこまで意識的だったかまでは不明ですが、背後に当時なりの時代精神に立脚した問題意識の共有があったのでしょう。

ジョン・スチュワート・ミルが「自由論」を発表したのはこのまま選挙権拡大が続くと政治がポピュリズムに屈するのを危惧しての事でした。彼自身はコンドルセ侯爵同様数学者として大数の法則を信じ「人類がその潜在的可能性を引き出すには挑戦数の最大化、すなわち職業差別や人種差別や女性差別の撤廃が不可欠である」と考えていましたが、衆愚政治は大衆の分別に欠けた感情的判断に阿るのでその原理原則を貫けないと考えて警鐘を鳴らしたのです。実際、当時の英国自動車産業を悪夢に叩き落とし、フランスやドイツの自動車業界の優位を許した赤旗法(1865年-1896年)など彼の考え方が当たってしまったとしか思えません。

上掲「とある本格派フェミニストの憂鬱7パス目」

2010年代のある時期、海外ネットではこうした動きを指す言葉として「暗黒時代回帰主義(Dark Age Regressionism)」なる用語が使われていたものです。しかしながら欧米の当該似非リベラル達は(NSDAPがナチスと呼ばれるのを嫌がった様に)そう呼ばれるのを嫌がり、かえって「(彼らの考える)人類の敵の総称」として採用したので概念そのものが支離滅裂に。

読もうと試みても内容が全然頭に入ってきません。まさしく以下で提唱した「悪魔合体」プロセスそのものの惨状…

「悪魔合体」プロセス

①嫌悪対象は一瞥しただけで脊髄反射的に悪のレッテルを貼って排斥する(自然観察次元)。

②嫌悪対象について一切知ろうとしないので、想像の世界を「傴僂で鳩胸」といった非実在の悪魔が埋め尽くし始める(妄想暴走次元)。

③最後には視界の全てが非実在の悪魔によって埋め尽くされる。

カール・シュミットの敵友理論の最大の弱点がこれで「敵」がどんどん悪魔合体して「非実在の悪魔」化していく事により現実への対応能力はかえって奪われていくのです。

上掲「とある本格派フェミニストの憂鬱3パス目」「悪魔合体」プロセス

経済学がマルクスから継承すべきは形式上の暫定理論というより、ここで浮かび上がってきた様な「(それがどれほど無謀な試みにしか見えなくても)あくまで進歩主義的立場に留まり続けようとする崇高な精神的態度」そのものだったのでは? それにつけても水争い問題は根深い…時代を超越してあらゆる場面に顔を出しますね。

星野之宣「2001夜物語」第2巻第13夜「共生惑星」

ここでまさに前半で長々と述べた「施設管理者には退去勧告しか許されていないが、それを黙殺され続けた場合には不退去罪が成立し、警察が対応を引き継ぐ」システムの重要性が改めて浮上してくる訳です。近代国家の大前提たる「国家による暴力の独占」、すなわち国内においては国家権力以外が直接暴力によって問題を解決する事を禁じるこの条項は、まさにこの意味合いにおいて「私有権価値説」と表裏一体の関係にあるといっても過言ではありません。例え何処かの誰かの主観においてはどれほど「権力の暴走に対する正当防衛」としか感じられないとしても、それがちょっとした思いつき程度なら概ね「領主が領民と領土を全人格的に代表する権威主義体制への回帰運動」に堕して終わりという話…

なお当時、検温スタッフを苦しめたのは、こうした妨害行為ばかりではありませんでした。

天然の脅威

大量の入場者を扱う集団接種会場では傍に刺す通常型、非接触スティック型、タブレット型などで1人ずつ検温するのでは間に合わないのでまとめて十人以上同時に検温する大型機材が導入されたが、冬場の冷え込む日にはこれが列記の逆順で順次効かなくなっていく地獄の景色が現出。ここから生まれたのが「非接触型スティックは服の腹に収めて温めておくと少しは効きが良くなる」なるノウハウだったという。当時のスタッフは、2023年5月時点でコロナ規制が解除され「冬の地獄の再来」がなかった事を一番喜んだという。

宗教的制約の脅威

集団接種が始まって真っ先に問題となったのは宗教的に厳格なサウジアラビアの民族衣装「ニカブ(目だけ出すアレ)」だった。大型機材でもタブレット型でも検温不可能なので、通常型や非接触スティック型の検温機をサブで用意しておかねばならない展開に。ただし怪我の功名というか、まだ温かいうちにそういう対応があった事が「冬場の地獄」への事前対応となった側面は否めない。

さらに付け加えておくと、これまで述べた「入場資格を満たす為の検温」の他に「提出書類に記載する事前検温の結果」と「書類完備の確認後、医師の診断許可を得る為の検温」があり「なんか無駄じゃね?」という声も。確かにそれはそうなんですが、当時は官民を横断する形で各セクションのルーチンワークを全体的に見直せるリーダーも検討時間もなく、そのまま最後まで突っ走るしかなかった側面も。
大阪府新型コロナワクチン集団接種会場運営マニュアル作成の手引き

そういえば上掲の「入場時の検温拒否」の際に挙げられる理由の一つに「体温もまた個人情報だから(接種可能か判断を下す医療スタッフならともかく)ただの運営スタッフごときに教える筋合いはない」というのもありました。確かに入場時に確認したいのは「平熱かどうか」だけなので体温そのものを知る必要はなく、こういう問題も「自動化」によって自然解消する訳です。

そして冒頭に戻りますが、こうして入場時配布されるステッカーは概ね退場時に回収していたのですが、途中で無くす人や記念品に持ち帰る人が続出して全回収には至りませんでした。とはいえもしこのステッカーを渡す際に入場時間を刻印し、退場時に退場時間を刻印してたら、それは立派な観測データとして成立していた筈です。

  • このステッカーには「書類審査OK」「検診結果OK」「接種終了」「予後経過確認終了」などのタイミングでも次々と時刻が刻印されていくものとする(検温データも刻印してたら、上掲の「検温3回」問題だって自然解消?)。

  • 途中でトイレに行った様なケースでは、その区間のみ明らかに統計的に外れ値となるので、ほぼ自動的に計測から除外出来る

ついそんな事を考えてしまったのも、集団接種会場によっては接種者の拘束時間を最短に留めるべく(そして局所的パンクを最小限に留めるべく)測定部隊が絶えずあちこちで接種順路などにまつわる様々なデータ測定を続けていたからでした。接種時期や接種案内範囲などにより状況が刻々と変わる最中、この方式なら計測部隊を配置する人的リソースがなくても、それなりには調整に必要なデータが入ってくる事になるのですね。

「戦場は新兵器の試験場」といいますが、当時の対コロナ対策が顔認証データの莫大な蓄積とか、多くの置き土産を残していったのもまた事実。もし当時、そういうシステムが採用されていたら、後世にそれなりの影響を与えたかもしれないという話…もちろん全部妄想に過ぎませんが、暗黒時代回帰主義の悪魔合体プロセスにハマって奈落に落ちるより、よっぽど健全で「進歩主義的な」妄想といえるのではないでしょうか?

次元数とサンプル数の可換性について。

この辺りを数式である表そうとすると、実にあっけない結果に終わります。各データを$${x_n}$$、n個の観測データの分散幅(理論値からの離散度合)を$${a_n}$$、誤差をεとすれば、全体yは、︎以下。

$$
y=a_0x_0+ a_1x_1+…+a_{n-1}x_{n-1}+ε
$$

式形としては(1000円相当の1等賞3個と500円相当の2等賞6個と価値のない(払い戻しのない)ハズレ籤50個の間に何の数学的関係もない)籤引きや…

逆に各元を連続演算$${a_mN^m}$$を連結するN進法(冪級数)もそう遠い存在とはいえません。

要するにどれも(とりあえず)線型独立(Linearly Independent)状態にあるベクトルの線型結合(Linear Combination)には他ならないという話。共通点は「式形上足し算の外観こそしてるけど、実際には足せない要素の寄せ集め」というあたり?

で、こうした問題を解くアルゴリズムの一つが「残差εが最小となる傾きと切片を求める」最小二乗法(Least Squares Method)となる訳です。

互いに相関関係にあるデータセットx,yの傾きAと切片Bを求め一次方程式y=Ax+Bを完成させる。

データセットxの平均$${\bar{x}=\frac{1}{n}\sum_{i=1}^{n}x_i}$$とデータセットyの平均$${\bar{y}=\frac{1}{n}\sum_{i=1}^{n}y_i}$$と普遍分散$${σ_x^2=\frac{1}{n-1}\sum_{i=1}^{n}(x_i-\bar{x})^2}$$について、一次方程式Ax+Bの傾きAは

$$
A=\frac{cov(x,y)}{σ_x^2}
$$

ただし、

ただしxとyの共分散cov(x,y)は期待値E[XY]について​以下。

$$
cov(x,y)=E[xy]−\bar{x}\bar{​y}​=\frac{1}{n-1}\sum_{i=1}^{n}(x_i-\bar{x})(y_i-\bar{y})
$$

一次方程式Ax+Bの切片Bは

$$
B=\bar{y}-A\bar{x}
$$

共分散が正なら最小二乗法による直線の傾きも正。負なら最小二乗法による直線の傾きも負。「無相関なら(相関係数が0なら)直線的な関係はない」。そして導出された式y=Ax+Bは必ず(データセットxの平均,データセットyの平均)を通過する。

上掲「最小二乗法(直線)の簡単な説明」

ガウスが第一発見者と主張してますが、当時はただ私信やメモにおいて触れてる程度。それに対して対抗馬のラグランジェはフランス革命当時の国策事業だった(メートル法制定の為の)地球観測事業の一環としてこの演算を公式に駆使しています。時代が時代なので観測データの収集過程そのものが冒険に次ぐ冒険の積み重ねとなってしまいました。「私有権価値説」成立前夜には「観測の自由の保証」もまたなかったという話…
地球の大きさと最小二乗法

1789年にパスティーユ牢獄が陥落した.フランス革命の中, 1790年にメトリックシステムを促進する法律が国会で可決される.長さに関しては,北極から
赤道に至る子午線の長さが 1万kmと定められる.このように,北極一赤道聞を 1万kmと先に定めてしまうと,この区聞をi日単位で測量する必要が生じる.そこで,フランス科学アカデミーは,ダンケルクからペルピニョンを超え,スペインのバルセロナに至る子午線を測量することとし,天文学者ドランプノレ (Delambre,Jean-Baptiste Joseph) とメシャン (Mechain,Piee Francois Andre)にその任を与える。

メシャンとドランプルによる測定はほぼ7年の歳月をかけて終了した.フランスの北端のダンカーク (}Junkirk)から,パリにあるパンテオン (Pantheon)宮殿を通り,南に下ってエボ (Eva似)とカルカソン (Carc,ωsonne)を通り,地中海に至る子午線の計測が行われたが,南端はスぺイン領のパルセロナにあるモンジヨイ(Montjoui), が選ばれた. カッシーニ 2世の計測はぺJレピニョンまでだから, さらに南下していることが分かる.

後日,アラゴ (FrancoisArago) はこの子午線を更に南のフォーメンテラ (Formentera) まで計測した (1809年). フランスはこの子午線を本初子午線に制定することを主張するが, 1884年の国際会議においてイギリスのグリニッチを通る子午線に敗北している.また,フランス革命の最中では自国内の測量でも王党派か革命派かと疑われるが,メシャン,アラゴは隣国を測量したのであるから,スパイ嫌疑などが生じたのも当然である。

上掲「地球の大きさと最小二乗法」

この辺りの話題を追跡してると、こんな感じで「次元数についての数理」と「サンプル処理についての数理」が入り混じってくるのですね。それは数理抽出の時点で、これだけの「諸般の事情」を切り捨てているからでもあります。そしてもちろん、個々の誤差や欠損が生じた理由を究明する時間は到底ないのが統計の世界…この辺りの事情がなんとなくながら明らかに出来た時点で以下続報…

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