見出し画像

【大数学者や大物理学者の時代パス1】変分法(Variational Calculus)なる物理学と数学の境界線

以下の四段階技術革新(Four-stage Innovation)史観のうち「大数学者や大物理学者の時代」について掘り下げるシリーズです。

  • 数秘術師や魔術師の時代(イタリア・ルネサンス期~近世)

  • 大数学者や大物理学者の時代(大航海時代~1848年革命の頃)

  • 統計学者と母集団推定の時代(産業革命時代~現代)

  • 機械学習と意味分布論の時代(第二次世界大戦期~現在)

最速降下問題からの出発

変分法(Variational Calculus:変分解析学)概念の起源は、このシリーズでいうところの「大数学者や大物理学者の時代」における最速降下曲線の研究にまで遡ります。

汎函数(函数の集合から実数への写像)の最大化や最小化を扱う。汎函数はしばしば函数とその導函数を含む定積分として表される。この分野の主な興味の対象は、与えられた汎函数を最大・最小とするような「極値」函数、あるいは汎函数の変化率を零とする「停留」函数である。

そのような問題のもっとも単純な例は、二点を結ぶ最短の曲線を求める問題である。何の制約も無ければ二点を結ぶ直線が明らかにその解を与えるが、例えば空間上の特定の曲面上にある曲線という制約が与えられれば、解はそれほど明らかではないし、複数の解が存在し得る。この問題の解は測地線と総称される。関連する話題としてフェルマーの原理は「光は二点を結ぶ最短の光学的長さを持つ経路を通る。ただし光学的長さは間にある物質によって決まる」ことを述べる。これは力学における最小作用の原理に対応する。

上掲Wikipedia「変分法」

この問題はなかなか由緒正しい問題です.古代ギリシャの数学者や,ガリレオも取り組んだようですが,1696年にスイスの数学者ヨハン・ベルヌーイ(1667-1748)によって提起されたものを嚆矢とすることが多いようです.

上掲「最速降下曲線(物理のかぎしっぽ)」
最速降下曲線とは曲線に沿って物を転がした時,物が一番速く転がり落ちる曲線を指す。

ベルヌーイ家は元々ベルギー出身ですが,ヨハンの祖父の代に宗教的迫害を逃れてスイスに移住してきました.息子や孫を含めて8人もの高名な数学者・物理学者を輩出している数学一家です。

上掲「最速降下曲線(物理のかぎしっぽ)」
特に有名なのはヨハン、その兄ヤコブ、そしてヨハンの息子のダニエル。レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler,1707年~1783年)は最初哲学を学んでいたが、ヨハンに数学の才能を見出され、サンクトペテルブルクの科学学士院でダニエルの同僚となった(その後、ダニエルはスイスに帰国)

ヨハンは人間関係で衝突の多かった人のようで,ロピタルの定理に名前の残っているフランスのロピタル公爵や,確率論で有名な兄のヤコブ・ベルヌーイと深刻な論争をしています.(ヨハンが家庭教師をしていたときのノートを,ロピタル公爵が自著として出版してしまった,とヨハンは主張しました.ヤコブとの論争はヤコブが自分より先に大学の教授職に就いたことに対する単なるやっかみだという噂ですが,真相はわかりません.)流体力学で有名な息子のダニエールがパリ科学学会の賞を取ったときには,怒って勘当してしまっています.怒ってしまった理由は不明ですが,とにかく,人との争いが耐えない人だったようです.ニュートンとライプニッツが微積分法のアイデアを巡って大論争を続けていたときには,友人だったライプニッツの側に立って自ら他人の喧嘩に参加したりしています.自分の知り合いにこんな人がいたらさぞ厄介でしょう.

ベルヌーイの話が長くなりました.最速降下曲線問題の話に戻ります.ベルヌーイの提起した問題というのは『決まった二点の間を,始点から終点まで玉が一番速く転がることが出来るような曲線を求める』というものです.もちろん,終点は始点よりもちょっと低くなっていて,少し離れているものとします.公開後しばらくして,ライプニッツの提案により,ベルヌーイはこの問題を海外の数学者にも公開することにしました.もちろんニュートンの鼻を明かしてやるつもりだったのです.ところがこの問題を受け取ったニュートンは大変疲れていたにも関わらず一晩で解いてしまったそうで,ベルヌーイとライプニッツは大変に悔しがりました.

ニュートンの日記にはその日のことを次のように記してあります.... in the midst of the hurry of the great recoinage, did not come home till four (in the afternoon) from the Tower very much tired, but did not sleep till he had solved it, which was by four in the morning. (わしは,王立造幣局の仕事が大忙しで,午後四時までは家にも帰れず,くたくたに疲れていたのじゃが,その問題を解くまでは寝なかったんじゃ.といっても,朝の四時までには解けてしまったんじゃが.(訳注:ニュートンは当時,王立造幣局の監督に任命され,金と銀の価値比率を決める仕事や,贋金犯の処罰に精力的に取り組んでいました.Joh訳)しかしニュートンも名誉欲や権勢欲の大変強い人で,自分の日記が死後出版されるまで想定していたという話もあるくらいなので,これが本当の話なのか,単なる自慢話なのかは分かりません.

結局,ベルヌーイの設定した期限内に回答を寄せてきたのは,ライプニッツ,兄のヤコブ・ベルヌーイ,ニュートン,ロピタルの4人だけでした.1697年に解答が発表されたとき,なぜかロピタルだけは無視され,他の4人の解答が発表されました.ロピタルの証明は1988年になってようやく発見され,正しいことが確認されました.

上掲「最速降下曲線(物理のかぎしっぽ)」

以下の投稿で名前を挙げた「大数学者=大物理学者」の面々の人となりについての貴重な記録といえましょう。

計算過程は参照サイトに譲るとして、この問題の答えは以下となります。
形の学校・サイクロイドの変分学

$$
x=A(θ-\sin(θ))
$$

$$
y=A(1-\cos(θ))
$$

いわゆるサイクロイド曲線。 ホイヘンスはこれが等時曲線(所要時間が質点の位置に関係なく一定である曲線)であることを発見し(逆に等時性が成り立つ曲線はサイクロイドしかない)、
ホイヘンスはこの原理を用いた振子時計を設計した(1656年12月25日 )。 .

ホイヘンス(Christiaan Huygens ,1629年~1695年)の名前は上掲投稿にもちょっと顔を出しますね。彼がサイクロイドの数理を用いた振子時計を完成させたのは最速降下問題が解かれるはるか以前…

  • 1-cos(θ)の形は、私もよく$${i^{1-cos(θ)(0≦θ≦π)}}$$の形で使うが、要するに0からπにかけてのcos(θ)の振り幅を+1~-1から0~2に写像する。

  • θ-sin(θ)も要するに初期値と向きを弄ってるに過ぎない。ちなみに上の図は0+sin(θ)で動かしている。

  • これが同じ変数Aでアスペクト比を変える事なく拡大縮小されるのが「等時曲線」である証。

最初の設問に沿って考えるとこういうアニメーションとなります。
最速降下曲線(サイクロイド)の坂よりも速い坂

摩擦だの何だのを一歳無視してる点で「数学的問題」というのが重要?

ハミルトン・ヤコピ方程式への到達

この時代から「数学と物理学の絶地天通成立(数学者が数学一本で食べていける様になる時代の到来)」に至るまでニュートンの運動方程式(Newton's equation of motion)の「数学的洗練」が続きます。

  • m=質点の質量、r=質点の位置、a=質点の加速度、F=質点にかかる力、 t=時間として

$$
ma=m\frac{d^2r}{dt^2}=F
$$

  • ラグアジアン(ラグランジュ関数)は運動エネルギーTとポテンシャルVについて

$$
L(q(t),\dot{q}(t),t)=T-V
$$

  • 一般化座標$${q(t)=(q_1(t),…)}$$の作用汎関数S(ラグランジュ関数Lの時間積分)

$$
S[q]=\int_{t_1}^{t_F}L(q(t),\dot{q}(t),t)dt
$$

  • ラグランジュの運動方程式

$$
\frac{σS[q]}{σq_i(t)}=\frac{∂L}{∂q_i}-\frac{d}{dt}\frac{∂L}{∂\dot{q}_i}=0
$$

  • ハルトミニアン(ハミルトン関数)

$$
H(p,q,t)=\sum_ip_i\dot{q}_i(p,q,i)-L(q(t),\dot{q}(p,q,t),t)
$$

  • 作用汎関数

$$
S[p,q]=\int_i^f\left[ \sum_i p_i(t)\dot{q}_i(t)-H(p,q;t) \right]dt
$$

力学変数 p,q は束縛条件の下で可能なあらゆる運動状態を取り得るが、最小作用の原理(変分原理、停留条件)により実際に起こる運動が導かれる。

上掲Wikipedia「ハミルトン力学」

作用の停留条件から導かれる運動方程式(ハミルトン方程式)

$$
\frac{∂ S[p,q]}{σp_i(t)}=\dot{q}_i(t)-\frac{∂H}{∂p_i}=0
$$

$$
\frac{∂ S[p,q]}{σq_i(t)}=-\dot{p}_i(t)-\frac{∂H}{∂q_i}=0
$$

  • ハミルトン–ヤコビ方程式(ハミルトンの主関数$${S(q_1,…,q_N;t)}$$に対する一階非線形偏微分方程式)。この時Sは古典的ハルトミニアン$${H(q_1,…,q_N;p_1,…,p_N;t)}$$の正準変換の母関数。

$$
H(q_1,…,q_n;\frac{∂S}{∂q_1},…,\frac{∂S}{∂q_N};t)+\frac{∂S}{∂t}=0
$$

ハミルトン–ヤコビ方程式は、ハミルトンの原理の積分を最小化する問題と同値なので他の変分法の問題、あるいはさらに一般的な他の数学や物理学の領域、たとえば力学系、シンプレクティック幾何学、量子カオスの問題などにおいても便利である。例として、ハミルトン–ヤコビ方程式はリーマン多様体において測地線を求めるのに用いられるが、これはリーマン幾何学における重要な変分問題である。

ハミルトン–ヤコビ方程式はまた、粒子の運動が波として表現される唯一の力学の定式化である。この視点から、ハミルトン–ヤコビ方程式は理論物理学の長らくの目標(少なくとも18世紀、ヨハン・ベルヌーイ以来)である、光の伝播と粒子の運動との類似性を見出す試みを達成したと見ることも出来る。力学系から得られる波動方程式は以下に示すとおり、シュレーディンガー方程式と、完全にではないがよく似ている。ハミルトン–ヤコビ方程式はこのような理由で、最も量子力学に近い古典力学の扱いであると考えられている。

上掲Wikipedia「ハミルトン・ヤコピ方程式」

数学からのアプローチでは、また別の見え方をする様です?

中根美知代「解析力学の形成における数学」

19世紀には数学は物理学と切り離された形で整備され始める。

上掲中根美知代「解析力学の形成における数学」

「解析力学(1788年)」におけるラグランジェの姿勢

以下の二つの特徴が顕著である。①力学から幾何学的なイメージを一切払拭し、す べての考察を数式の代数的操作に帰着させようとする。②「仮想仕事の原理」を基礎において静力学と動力学を統一的に扱い、演繹的議論を展開しようとする。

また非保存力系にも適用できるような一般的原理を基礎におく一方、ラグランジェ方程式・エネルギー保存則・最小作用の原理などを、ポテンシャル関数が存在すること、すなわち保存系であることを「仮定」して導いている。①現実に非保存系は存在するのか。②理論を保存系に制限することに力学上どのような意味があるのか。そんな観点に無頓着なまま、理論を整合的に提示する為だけにそのような仮定を導入している。

現象よりも数学的形式を重んじるこの様な態度に対しては、同時代の数学者/物理学者であるポアソン(Siméon Denis Poisson、1781年~1840年)やラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年~1827年)も批判的だった。

上掲中根美知代「解析力学の形成における数学」要約

この辺りの議論から変分法の導入が不可避となる模様…

「動力学における数学的方法(1834年,1835年)」におけるハミルトンの姿勢

ハミルトンももまた数学的仮定を伴なうラグランジェの議論には否定的であった。①ボスコヴィッチ(Rugjer Josip Bošković,1711年~1787年)の原子論を受容し、すべての自然現象は質点系の運動に帰着できると考える様になった。②活力保存則は全宇宙にわたって成り立つ法則として理解していた。すなわち、彼は、数学的手法の 面では『解析力学』の成果を受継ぎつつ、別の自然観のもとで新しい力学形式を作ったのであった。

その一方で主関数概念を導入し、 これから力学系のすべての性質を導けるとしたが、この演繹的形式は『解析力学』にならったものである。ただしその一方で保存がみたされる自然界を記述するという立場を貫き、カ学形式を作るなかで数学的な視点からの一般化を試みたり仮定を置いたりはしていない。

それどころか保存を重視する為、主関数が満たす偏微分方程式を数学的には不自然な連立方程式としたりしている。

上掲中根美知代「解析力学の形成における数学」要約

物質の力を起因を点状の均一な原子に還元する考えを1758年の『自然哲学の理論』に著し、後の原子論者に影響を与えた。

大陸におけるニュートンの万有引力の法則の最初の支持者の一人であり、70冊の光学、天文学、重力の理論、気象学、幾何学の著書を著した。科学的な活動のほかに、外交的な仕事でウィーン、ロンドンなどヨーロッパ各地で活動した。

数学の分野では誤差の絶対値の合計を最小化して回帰式の係数を求める方法を初めて用いたことで知られる。

上掲Wikipedia「ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ」

なんと「最小一乗法」にはラプラス(1799年)以前に先駆者が?

「カ学講義(1842年~1843年)」におけるヤコピの姿勢

ヤコピは1836年、ある制限3体問題において、ポテンシャル関数を時間を陽に含むものとみなすことにより、新しい積分を見出した。翌1837年にはハミルトンの成果 をこの場合にも適用できるように拡張し、主関数のみたす方程式は一つで十分なこと、保存系の場合は2つ目の方程式を付け加えても矛盾は生じないが、余分であるとした。さらに「カ学講義(1842年~1843年)」では、ポテンシャル関数がtを陽に含む場合まで含めたハミルトンの理論が提示されている。

ただしヤコピはこの様な拡張が無条件に適用可能なのは純粋に数学的な変分問題においてのみとし、実際に力学を論じる場面では変分理論に制限 をつけ、保存力系に限定して論じていた。自然現象に即して力学形式を繋備してきたヤコピは、現象を離れて一般化した数学理論をあくまで力学と区別して扱っていたのである。

上掲中根美知代「解析力学の形成における数学」要約

これで数学と物理学が絶地天通していく「大数学者や大物理学者の時代」末期の風景にだいぶ目鼻がついてきた気がします。そんな感じで以下続報…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?