音を265.う


夜の高円寺。新しくないのに古くない感じとか、入ったらきっといい気分になれるだろうって面構えの吉田類っぽい店とか、町の人の多さとか(それほど多いわけではない)、若さとか、エネルギッシュなパワーを強烈に放っているこの街で、一際エネルギーを放ち光輝いていたのは、古着屋さんのショーウィンドウに顔がつくくらい近づきながら写真を撮っていたおじさんだった。

いったい何をそんなに熱心に撮影しているのだろうと思ったら、被写体は裸にリボンの巻かれたトルソーだった。

おお、と思わずのけぞってしまった。
トルソーとはなかなか…。

例えば異性のマネキン(腕や足があって、人の顔がついてる)とかだったら、わかりやすい。

トルソー。

※参照元


いつまでも、何かに熱中できたらいいなと思っている。
ともすると音楽じゃないのかもしれない。
突き詰めていることの答が手に入って満たされた時とか。
人の考えが変わる瞬間、決意の瞬間に立ち会うことがままある。

いつでも、みんなどこかつきものが取れたみたいなすっきりした表情をしているような気がする。
「ああもう決まっているんだな」と思うので自分は引き止めもしないが、同時に乗り越えてきた闇の波の高さを想像して辛くなる。

そして、そういう時、なんとなく何かを受け取る。
それが何か、きっと後になったらわかるんだと思う。


確かめるためには他の条件を達成しないといけない時もある。
そういうのがわかっただけでも、無駄に歳をとったわけじゃないと嬉しくなる。


近所のスーパーへの道によく通る路面店のひとつに、何を売ってるのかよくわからないけどショーウィンドウにこだわりを感じる店があった。
定期的に覗き、その変わり映えを写真に撮ってきた。


少しずつレイアウトが変わっている。
でも売り物ではなさそうなそれらと、
店主の熱意が自分をなぜかいつも立ち止まらせた。

最近になって、突然まっさらになった。
なにか大事があったのかもしれない。



実はいつも覗いてると、奥で床に横になってる店主らしき方と目が合っていた。
特に話しかけられることもなく、話しかけることもなく、「今回も素晴らしいです」というコメントをただ一方的に無言のまま発信し続けてきた。

もう新作を見れないかもしれない、とは少しずつ理解してきたところで、やはり少し寂しさがある。

いま住む町は学生の頃にも通った町で、多分その頃からこんな状態だったように思う。

自分が記録し始めたのはここ2年の間のことだけど、戻ってきた時にタピオカ屋とかができている中ここが変わってないことになんとなく安堵したものだった。
(時計屋なのかと思ってた気がする)

また更新されたら嬉しいな、と思いつつ、見れなかったら見れないで、その寂しさも人生の味として噛み締めたい。

きっとこういう場所があって、なぜか更新され続け、なぜか自分は撮影し続けてきたことを、きっと覚えていることだろうと思う。

2021.12.16.
小野雄大 https://ydon79.amebaownd.com/

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