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思いやるということ|「ということ。」第24回

前のアカウントでひっそりと書いていたエッセイを再開しようかしら、と。

先日、大学時代の友人からメールが届きました。
<思いやりって何だと思う?>
久しぶりの連絡が唐突な質問から始まったことはさておき、<思いやりと一言にいっても、相手や場面によって形はさまざまでしょう>とまずは返信。そして少し話を聞いてみると、どうやら彼女は恋人に「君は思いやりが足りない」と言われたそう。

恋人、それも出会ってからだいぶ経ち、心身ともに誰よりも近くに置き置かれる相手に求めすぎてしまうことは、ままあります。「どうして○○をしてくれないのか」「△△してくれればいいのに」、あるいは「わたしばかりが相手に尽くしすぎているのでは」。どれもこれも、いまの恋人と暮らし始める前、別のひととの同棲生活に“失敗”したわたしが当時感じていたことでした。生活費は折半なのに、わたしばかりが家事をしている。なぜ彼の分までやらなくてはいけないの?と。友人からのメールで思い出したのは、そういえばわたしもそのひとから「思いやりがないね」と言われたのだった、ということ。

さて、いまの恋人は間違っても「思いやりがないね」だなんて言わない、万が一言ったとしても、それはきっとわたしが本当に自分本位なことをしてしまったときだろう、と思えるひとです。そしてわたし自身も、彼に対し、「もっと思いやってよ」とは思わない。普段の生活では、彼の仕事が忙しそうならば家のことはわたしが頑張ろう、洗濯ものを干す元気がないからちょっと彼に任せてしまおう、なんて、ときどきで役割をスイッチできる。これは彼のひととなりだけでなく、いえそれよりも“わたし”と“彼”が、あくまで他人どうしだ(と認識し合っている)から成立するのかもしれません。ただ、わたしが嬉しいのは、相手のしんどいときに「力になりたい」と思える自分の心意気、そう思えることそのものなのです。

友人の話、そしてわたしの失敗の日々から行き着いたのは、「思いやりって、後から付いてくるものなんだ」ということ。思いやろう!と思ってその通りにできるなら、苦労はしない。
思いやりは、ふっと心からにじみ出て、知らぬ間に言葉や仕草にあらわれ、少しずつ相手の心に沁み込んでいくもの。そして雨水のようにあちこちを巡り、巡って、またこちらに還ってくるもの。

そういう奇跡のようなシロモノなのだから、こちらから湧かない思いやりを相手に求めるのも、そのまた逆も、なんだかちょっと無粋です。思いやりとは、少なくとも求めるものなんかじゃない。もらったときにはただ慈しめるよう、あげたときには無意識でいられるよう。わたしもそう、あり続けたいものです。

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editor/writer|建築、映画、文鳥、囲碁|Twitterが主
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