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第一部のチェンソーマンって資本主義批判ってことですよね?

※※第一部までのネタバレを含みます※※

はじめに

チェンソーマン読みましたか?どんな感想を抱いたでしょうか?漠然と思ったこと、それは「結局この話ってなんだったんだ?」ではないでしょうか。
チェンソーマンを読み通すと、私には資本主義批判のように感じられたのですが、他の方の考察を読むと大方モチーフや引用の話に終始していて、社会批判として読んだ方が少なかったようなので記事にしてみました。お付き合い頂けると幸いです。

資本主義の欠点

資本主義の根幹は交換原理にあります。100円支払ったら100円分のサービスを得られる等。この交換を素早く行うことによって価値を生み出しているのが資本主義です。ただ交換原理には問題があって、交換自体は公平だとしてもそれを繰り返していくと貧富の差ができてしまうという点です。
貧富の差ができてしまう理由は貧しい人は多少不利な契約にも応じなければいけないから。作中に登場するデビルハンターたちは何らかの代償を支払って悪魔と契約していますが、デビルハンターたちは悪魔の出す条件を拒否できません。そうしないと仲間や自分が殺されてしまうからです。

あきくん契約

この「契約」というキーワードは作中何度も登場します。むしろ、このマンガの特異な点は、最強の力を持つ者(=銃の悪魔)が最強ではなくて、契約を強制できる力を持つ者(=支配の悪魔)が最強と描かれる部分でしょう。
これは現実の社会を考えれば当然と言えます。ケンカ自慢で腕っぷしが強い人より、あらゆる交渉事を有利に運べる人のほうが実社会では高い地位にいますよね。それは資本主義というシステムで考えれば必然と言えます。

頭のネジがぶっとんでるヤツがデビルハンターに向いている理由

さて、交換を繰り返すと貧富の差ができてしまうと書きました。そして、これはお互いが同意した契約によってできた結果なので、自己責任といえます。そのため、人間は悪魔に対して批判できません。だって、文句があるならそもそも契約しなければいいんだから。
普通の理屈で考えればこうなるでしょう。しかし、この理屈は本当に正しいのでしょうか。原理上、貧富の差ができてしまうシステムなのに、貧しい原因は自己責任というのは、どこか無理な気がします。
私はパンにバターを塗れる生活をなげうってゴミを漁って生きていたい、という人がいるなら、それはご自由に、という感じですが、全体のシステムのせいで悪魔と契約せざるを得ない人がいるのは端的に言っておかしい。
だからこのシステムは不完全と言える。けれど、一つ一つの契約は公正なように見える。だから、デビルハンターは契約を公正に守りながらも、契約を破れる非論理性を持ち合わせないといけない。
これが頭のネジがぶっとんでいるヤツがデビルハンターに向いている理由だと考えます。論理的に貧富の差ができるなら、非論理によって貧富の差を埋める。様々な規制やシガラミをぶち切るだけの異常性が必要なのです。

マキマがチェンソーマンに憧れる理由

マキマ(=支配の悪魔)は契約を強制できるという点において、資本主義社会では最強です。ただし、これは同時に公正なルールによってがんじがらめになることを意味しています。ルールを作り、ルールに守られることによって、何もかもを支配していくわけですが、同時に自分で作ったルールに強制されて、身動きが取れなくなって行くのです。そういった意味で、マキマはカゴの中の鳥です。
マキマがチェンソーマンに憧れるのは当然でしょう。なぜならチェンソーマンは取引の理屈の外にいる存在で、ルールを破壊できるからです。ここでは、本当の自由について考えさせられます。つまり、本当の自由、本当の勝者とは、ルールを作って勝つだけでなく、ルールを破壊して負けることもできるはずだから。マキマは支配-被支配という取引に囚われた鳥で、そのカゴから出たいと思うのは自然な感情ではないでしょうか。

反知性主義ではなく「真」知性主義

反知性主義とは知性よりも感情や意思を優位に置く考えのことですが、これが転じて最近では、エリートだけで社会を回すと結局エリートに有利な社会になるから良くない、といった意味合いで使われるように思います。
チェンソーマンでは、エリート側のマキマが倒されるので反知性主義的と言えますが、最後にデンジがマキマを食べる行為によって次のようにも解釈できないでしょうか?知性と反知性が合わさって、真の知性になった、と。
真知性主義とは私の考えた造語です。(分かりやすいかと思って作りました)

これはドイツの哲学者のヘーゲルが提唱した止揚という概念をベースにしています。止揚とは物凄く簡単に言うと、ある意見とそれを否定する意見をあわせて、より素晴らしい意見を作ろうとする概念です。

・知性派
交換や契約によってお互いが得する社会は素晴らしい、その一方で損をする者がいるのはそれはその契約に応じた者の自己責任だ。

・反知性派
交換や契約によって得するのは結局頭の良いやつだ。そんな知性のある人間が一方的に得する社会は間違っている。

これらの知性派と反知性派の意見を合わせるとどうなるでしょうか。
次のようになるはずです。

・真知性派
交換や契約はお互いが得するために必要だが、それによる貧富の差が生じすぎた場合はそれを無かったことにする。

一見ツッコミどころ満載の真知性派ですが、現実でも累進課税等の仕組みがあるわけで、やはりどこかで線引きは必要になるのですね。
チェンソーマンでは支配の悪魔(=知性派)によってルール上は公正に社会を乗っ取られてしまった。だから、その連鎖を断ち切るためにチェンソーをぶんぶん振り回し、理屈なんざ関係ねぇとルールをぶった切っていく。そのような姿に、読者は現実社会の正しいのだけど正しくない部分を切ってもらえたような気がして爽快だったのではないでしょうか。

おわりに

さて、資本主義批判としてチェンソーマンを考えてみましたが、いかがだったでしょうか。このような記事があまりないのは、これらが的外れに過ぎないのかもしれませんし、あるいはそんなことは分かりきっているということなのかもしれません。ただ、このように考えると私はスッキリしたというだけのことです。そして、私がスッキリしたのなら他にもスッキリする人がいるやも、ということで記事にした次第です。

チェンソーマンの面白いところはデンジが単に知性を否定する存在として描かれていないところだと思います。第二部は学校を舞台にしているので、デンジが知性を獲得するかもしれませんね。(実を言うと私は二部を読んでません汗)最後までお読みいただきありがとうございました。この記事が何かの発見の一助になれば幸いです。


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