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自殺について

涼しい夜なのでよかった。

ここには書かないが、超2018年的な悩みと、超旧時代的な悩みのハイブリッドで心のバランスを崩し、医者からもらった小さな白い粒をとりあえず口に含んで、泣きながら家を出た。ワイヤレスイヤホンで音楽を爆音で聴きながら、ベッドタウンの住宅街を声を上げて泣きながら歩く21歳の女である。自分がどこに向かっているのかよくわからないが、最近行き始めた心療内科の方向だった。あら、随分遠くに来たつもりが、家の近くの建物がもう見える。帰り道は意外とクリアに存在している。適当に曲がって適当に適当に戻って、いるのに。


車はビュンビュン横を走る。

私って透明人間なのかな?と思うことがよくある。例えば「みんな」が集まっている時、例えば狭い道を占領しながらゆっくり歩くグループに声をかけた時。ああ、あの小さい薬が効いてきた。感情はフラットに、脳みそは靄に包まれ、足取りは酔っ払いのようにふらつく。涙も乾いた。薬のおかげで。
今頃薬がなかったらと思うと少し怖い。

死にたい、は「逃げたい」だ。いろんなものから、例えば生きることから。

ガラスの美しい装飾付きの瓶に生きていくための糧が入っているとして、そこに常時石を投げ込まれる環境というのを想像してみて。生きる糧はエメラルドグリーンの美しい液体だけど、それらは割れた瓶から流れ出し、戻らない。覆水盆に返らず、溢れたミルクは瓶に戻らない。となるのもうお手上げで、こうやって地元を徘徊するしかない。手首を切ったり、薬をたくさん飲んだりするほかない。
人はあっさり死んじまうものだが、死のうと思うとなかなか死ねない。まずウツだったら、何もしたくないのに死ぬための装備を用意したりすることができるか?できるわけがない。そうやって私たちは生の牢獄に閉じ込められているわけだ。
のどをかききって死んでしまいたいぐらいの時に、「死んだらあの人は悲しんでくれるかな」なんて淡い期待を持った場合は悪夢でしかない。確かめようがない上、死んだかどうかなんか問題ではない。そういう人にとってはもはや、その人の記憶から出て行った人たちはもう死んだと同じなのだから。今更二度死にしたところで痛くもかゆくもない。


スマホを地面に叩きつけたくなった。しかし理性が止める。買い換えるのは面倒だし、お金がかかる。連絡先をあれこれするのも面倒でしかない。だから思いとどまる。そこを思いとどまれなかった人が死ぬ。カンタンなルールである。

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