「向こう側」に行きたい

 人生は選択の連続である。道は常に二股に、またはいくつかの道にわかれ、私たちは常にどちらかを選択している。そして同時にどちらかを選択しないという選択をしている。選択は枝分かれし、すっかり幹から離れた場所に来てしまった。

 選ばなかった方を選んだ自分が遠くに見える。何の選択が私をここまで運んだのだろうか。コンビニで唐揚げを買わなかったからか、それともバス停についた瞬間にちょうどバスが来たからか、それとも。

 選択や偶然によってもたらされた出会いによって私は今ここに立っているわけだが、それらがなかった/またはあった自分もきっとどこかに存在している。そいつらは私のことを羨んだり、憎んだり、馬鹿にしたりしているだろうか。あの道を選ばなくてよかったと安堵する私も向こう側にいたりするのだろうか。


 もし、あの時母が死んでいたら、もしあの時、あの人に出会わなければ、もしあの時、決断しなければ、もしあの時。いろんな自分が自分一人の中に渦巻き、自分のみならず他人もたくさん巻き込んで今ここに、いろんなものを選び、選ばなかった自分が立っている。

 枝は細く絡み合い、誰かの他の幹から伸びた枝と交わる。私の枝がある程度の長さでなければ出会わなかった枝、たまたま壁にぶつかり迂回した枝と出会う。

 ああ、こんなにも怖いくらいの偶然によって出会うのに、なぜこんなにもあっけないのか。怒りすら湧いてくる。

 「向こう側」にいるはずの人間と、こちら側にいる人間が出会うということ。出口のない部屋のような、すっかり整列されて一ミリも動かせない椅子のような、文句のつけようのない証明のような、すっぽりとはまる茶の入れ物のような、髪の毛一本入る余地のない清潔な食品工場のような、完全に死んでしまった脳のような、全くどうすることもできない状況に「向こう側」にいるはずだった人間は私を連れて行く。

 なんであなたはこちら側に来てしまったの。

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