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「ヘヴン」

おはようございます。

2016年、最初に読み終わった本は川上未映子さんの「ヘヴン」でした。年末から読み始め、元日に読了。凄惨な暴力の描写も多く、顔をしかめ、口を曲げ、つっかえつっかえの読書となりました。暴力描写の圧力にはくらくらした。読み終えて、総体を掴むのがなんだか上手くできなかったけれどとにかく凄い、と思ってます。いろいろ書く前にまず好きな場面の話をします。

主人公の<僕>と彼の同級生コジマが夏休みに電車で遠出する場面です。

「うれぱみん」とコジマが言った。

「うれぱみんってなんのこと?」と僕はきいた。

「うれぱみんは、うれしいときにでるドーパミンのことだよ」とコジマは言った。

「知らなかった」と僕は答えた。

「苦しいときにでるのはくるぱみん」とコジマは教えてくれた。

「淋しいときは」と僕がきくと、さみぱみん、とコジマはすかさず答えて、笑った。

       (川上未映子著「ヘヴン」 講談社文庫 63ページより)

<僕>は通っている中学校で苛めにあっています。そして同じく苛めにあっているコジマから<わたしたちは仲間です>という手紙を受け取るところから物語は始まります。お互いへの共感から近づいた2人の間で交わされる他愛のない会話。その相手がいなければ語られなかったような言葉だけど、けして大袈裟ではなく他愛のないものであるところにぐっときました。それと、<うれぱみん>とか<くるぱみん>といった名前の付け方が魅力的。さみぱみん、淋しくてもちょっとくすっとできそうでいいです。

私はこの本を、主人公の<僕>が成熟へのスタートラインに立つまでの過程を描いている、という風に読みました。

中学校で苛められている<僕>はコジマに出会うまで誰にも言えずに自分の状況に耐えている少年だった。それからコジマと手紙をやり取りして、それぞれの境遇について伝えあうようになり、彼女が自分と似た状況にいながら自分とは違う方法で向き合っているのを知ります。もう1人、苛めている側のグループの百瀬と言う少年の考えに触れる事で相手側もまた、自分とはまったく違う想像もできなかったような論理で動いていることも知ります。さらに苛めの原因だと<僕>が考えていた自分の身体的な特徴が手術で矯正できることを知ります。しかも手術代もけして高額ではない。<僕>は葛藤します。

コジマも百瀬もそれぞれに自分の立場に対する考えを持っています。筋の通った、とても立派なことを言っている。そしてその発言は、なぜこんなことがおこるのか、なぜこんなことができるのか、わからないでいる<僕>を悩ませます。でも、どんなに立派なことを言っていても彼らは子どもだと私には思えます。発言内容の問題でありません。他の人間の言う事を聞こうとする姿勢が無いからです。彼らは<僕>の打ち明けた話を受けとめて何かを考えようとはしません。一方で、<僕>は他人の言葉に対して開いている。彼らの話を受けとめ、それが故に、悩み、葛藤している過程を描いている。そして話をすることで最後にはいくつかの結論を出す事ができ、<僕>は「想像もしなかった光景」を目にする。この過程が成熟するための、つまり大人になるためのスタート地点なのかなと思うのです。もちろん苛めがなければ、<僕>はいつか違う形でこの過程と向き合うことになるのでしょう。苛めはこの本に関しては著者が選んだ題材であるだけだと思います。

朝日新聞デジタルの2009年の記事*で著者はこの作品について「いじめがテーマというより、ある出来事を通じて価値観を検証したかった。犯罪だと客観的に悪とされるが、善悪の根拠を問いかけられるのではないか、と。」と語っています。「善悪の根拠を問う」ためには、自分の信じていることを一旦保留にして検証する必要があると思います。実際、物語の中で<僕>はかなり強く、随分衝撃的なやり方で自分の信じている事を揺さぶられている。読者である私もまた揺さぶられて検証を迫られている。「ヘヴン」の中で苛めの中心である二ノ宮が本をよく読む<僕>にこう言います。

「小説って、基本的に人間の人生の色々について書かれてるんでしょ?でも俺にもおまえにもつくりものじゃない手持ちの人生がすでにあるっていうのに、そのうえなんでわざわざよそからつくりものを持ってきていまさらそんなものをうわ乗せしなきゃならないんだ?」

      (川上未映子著「ヘヴン」講談社文庫 152ページより)

私はこの葛藤の無さがとてもおそろしい。手持ちの人生しかないからこそ読むのではないかな。そしてそれによって問いを続けること、正にこの働き自体を訴え描いている点に私は凄みを感じたのかな、と、ここまで書いて思っています。

* 朝日新聞デジタル (2009年10月14日) : http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200910140280.html



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