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【短編小説】カラス


右手の細い棒切れに自分を重ねた。

書けば芯がすり減って、カッターで外側を削ってまた軸を出す。
こいつは本当に私のようだ。
黒く薄汚れた鉛筆に親近感を覚えた。

持てなくなるほど小さくなったら棄てられてしまう。
わたしもそうなのだろうか…。


中学生になったのは1年と半年前。
誰もが新しい世界に胸躍らせた春。私も例外ではなく、セーラー服に袖を通した時は胸が高鳴った。

絵が好きだから美術部に入ろう。
勉強にはちゃんとついていけるだろうか。
仲のいい友達はできるだろうか。

期待と不安、未知の世界。
何もかもが新鮮で、楽しくて、怖かった。


水曜日の朝10時。
クラスメイトたちが当たり前に授業を受けている頃。

私は鍵を閉めきった自分の城の中に居た。
カーテンを閉め切っているため今日の天気すらわからない不自由な居城。

机に向かってこそいるが、教科書や学習ノートはここ半年ぐらい触っていない。
律儀に整頓された机にはA4のコピー用紙が1枚だけ置かれていた。

右手の鉛筆をくるくると遊ばせる。
真っ白な紙をぼーっと眺めて、何を描くわけでもなくただ時間が過ぎるのを待っていた。


いつからだったか、学校に行こうとすると酷くお腹が痛くなった。
しばらくは我慢していたが、ある日体調が悪いと訴え、何日か続けて学校を休んだ。

「こんなに休むと学校行けなくなっちゃうわよ」と言う母の言葉に背中を押され、私は重い足を引きずって何日かぶりに登校した。
異変は教室の引き戸に手をかけた時に起こった。

胸がぎゅうと締め上げられるように痛い。浅くなる呼吸、空気の吸い方を忘れた。
次第に身体中から汗が吹き出た。頭がぼーっとして、指先がだんだん冷たくなる。
このまま死ぬんじゃないかと思った。

「杉本さん、わかりますか?」
覗き込んで名前を呼ぶ女性。ここが総合病院だと理解するのに少し時間がかかった。
過呼吸で倒れて搬送されたとのことだったが、看護師の説明に実感も興味も湧かず、淡々と他人の話をされているような気分だった。


私はあの時本当に死んだのかもしれない。
魂の抜けた無気力な体を、少し高いところから冷めた目で見つめる少女の亡霊。
そっちの方がしっくりくる。

スクールカウンセラーに「杉本さんは擦り切れるまで頑張ったのね。しばらくゆっくり休むのがいいと思うわ」と言われてからは完全に学校へ行かなくなった。

そんなになるまで何を頑張ったのかはイマイチわからない。
でもきっと、あの先生が言うように私は擦り切れてボロボロになっていたのだ。
なんとなく死にたくなってカッターを握ったりもした。泣いている母をみて、ただ私は鬱陶しくてたまらなかった。


この鉛筆のように、芯がすり減ったら刃物で削って、それを延々と繰り返す。
そんなことをしているうちに、小さくなった私は自分自身に捨てられてしまったんだ。

あんなに好きだった絵も描けない。

以前はありとあらゆる妄想を殴りつけるように描いていた。
描いても描いても、いくらでも湧いてくる。時間がどれだけあっても、私の世界は書ききれないのだと。
そんなふうに思っていたのがもう、遥か昔のようだった。


夕方、家の電話が鳴った。
他の子より少し仲のいいクラスの男子だった。

「体調は?」
「身体は平気。心配かけてごめん」

謝ることじゃない。そういった彼は少し照れくさそうに次の言葉を言い淀んだ。

「あのさ杉本、今から少し出てこないか?無理にとは言わない。気が向いたら港まで顔を出して欲しい」

堤防のベンチの所で暗くなるまで待ってる。
それだけ言うと私の答えも聞かずに彼の声はプツッと切れてしまった。

卑怯なやつ。
待たせるのは嫌だった。だが、久しぶりに家の外に出る決心をするのは簡単ではなかった。


私がそこに着いた時には、もう日が沈むところだった。
海に落ちる太陽を背に彼は待っていた。

「久しぶり。来てくれてありがとう。」

心からほっとしたようだ。はにかんだ彼にイライラする。
急に人を呼びつけておいて、なにをそんなに喜んでいるのだろうか。私の心は酷く凍てついていた。

「なんの用?」

彼の体に突き刺さりそうなほど冷たい声が出た。
人の気も知らず、相手は照れたような表情で言う。

「1年生の夏休みに杉本が描いた絵。覚えてる?」

確か海の絵だった。
夏休みの課題で描いた水彩画が、地元の小さな展覧会で賞をとった。

「俺、あの絵を見て感動したんだよ。今まで絵なんて全く興味なかったのに。杉本の絵、すげぇなって。」

まさかそんなことを言われるとは想像もしておらず、私はひどく動揺した。

彼はスポーツが得意で、どちらかと言うとやんちゃな性格の子だった。
1年も2年もクラスが一緒で、たまたま席が近かったからよく喋ったけれど、相容れないタイプの人だと思っていた。

「空にカモメが飛んでただろ?なんていうか、すごくワクワクしたんだ。この鳥はどこに行くんだろう、この海はどこに続いているんだろうって。」

彼は私に背を向け海を見た。

表情は見えないが、夕日に照らされる海のようにキラキラしているんだろう。
トワイライトに浮かぶシルエットが、眩しかった。

「これは俺のワガママだけどさ。杉本の世界が、もっと見たい」

光が溢れた。

慟哭は、亡霊の魂を身体に呼び戻す激しいサイレンのようだった。
暗くなるまで止まることなく、落ちた涙が彼の学ランを湿らせていた。


家に帰る頃には頭がすっきりしていた。

たくさん泣いたせいかもしれない。
みっともないくらいに目が腫れて鼻が赤い。ぐちゃぐちゃな私の顔を見て笑う彼が憎らしくて、なぜだか少しだけ愛しいと思った。
ひんやりした海風が心地いい夜だった。

机に向かうとA4のキャンパスに鉛筆を滑らせる。

真っ白な世界の真ん中に現れたのは、一羽の黒い鳥。
海を越え、空を超え、その鳥はどこまでも力強く羽ばたいていった。


End. 2019.05.04

3つのお題をテーマに執筆《鳥》《海》《鉛筆》

物好きの投げ銭で甘いものを食べたい。