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【短編小説】とある日常


シンプルで可愛らしいクリーム色のマグカップがふたつ、キッチンの粗末な食器棚に並んでいる。
殺風景なワンルーム。男の一人暮らしには不釣り合いな品だった。

簡素な調理場も、いくつか買い足した皿や鍋も、もうしばらく使っていない。
もともと僕は自炊が苦手で、せいぜいケトルで湯を沸かしてインスタントラーメンを食べるぐらいだ。

だから、こんなものばかり残して行かれたってどうしようもないのに…。


彼女が別れを切り出した理由を僕は未だによくわかっていない。
喧嘩をしたわけでもなかったし、その日だっていつもと変わらず僕の部屋でレンタルDVDを一緒に鑑賞していた。

ありきたりな洋画のラブストーリーが正直僕には退屈で、しかし彼女が選んだ映画を突っぱねる事も出来ず最後まで付き合った。
途中あくびが出そうになると、おそろいのマグカップにホットコーヒーを足して眠気を覚ます。マグは僕の方だけよく働いていた。
エンドロールが流れるまでに途方も無い時間がかかったような気がしたし、男性歌手の歌うセクシーな洋楽が流れた時には心からほっとした。

「よかったね」
チャプター画面に切り替わった時、隣に座る藍子が甘い声で頭を寄せてきた。

主人公のOLが困難に立ち向かう王道のシンデレラストーリー。最終的に片思いの男と結婚して、ハッピーエンド。
「ありがちな展開でつまらなかった」などとは口が裂けても言えないので、彼女の言葉に同意する。

仕事の疲れも相まって、僕の眠さはとうに限界を超えていた。

「ありがとう。あなたと観れて嬉しかった」

狭い布団で一緒に横になると、藍子は寝る前に僕の顔を見てそう言った。
翌日もお互い朝から仕事があるため、いつも通りに早く寝る。
彼女の寝息が聞こえた頃には、僕の意識も暗闇に吸い込まれた。


味噌のいい匂いが漂ってくる。いつもの朝と変わらない目覚め。
7時ジャストに鳴る目覚まし時計。藍子が朝の情報番組を見ながら化粧をしている頃だろう…。

だがすぐ違和感に気がついた。
テレビがついていない。それどころか電気も。藍子はもう仕事に行ったのだろうか?

カーテンの閉まった薄暗い部屋。なんとなく嫌な予感がした。
いつもならあと5分は寝るところだが、すぐに布団から飛び起きて彼女の名前を呼ぶ。もちろん返事はない。

いつもと同じように用意された朝食。白米、味噌汁、卵焼き、サラダ。その横に小さなメモ用紙。

あなたと過ごした時間はあたたかくて大切なものでした。
でも、もう終わりにしましょう。
あなたが悪いわけではありません。
わがままでごめんなさい。 藍子

青い空がプリントされた可愛らしいメモに、彼女の字で記された別れの言葉。


彼女の手料理は喉を通るわけもなく、でも捨ててしまうのも嫌だった。

仕事から帰ってきたあとに、すっかり冷たくなった味噌汁で固い米を腹に流し込んだ。


あれからもうひと月になる。

誰も立つ事がなくなった台所。彼女が好きな紅茶のティーパック。
はじめの頃はそういったものを見る度にどうしようもなくむしゃくしゃして、憂鬱で泣きそうになった。

きっと僕は、知らず知らずのうちに彼女を傷つけていたのだろう。
そう思うと藍子に合わせる顔もなく、あれ以来一度も連絡をとっていない。
会いたい気持ちが無いと言えば嘘になる。しかしこんな僕が今更会ってどうしたらいいのかと考えた時、答えはまるで浮かばないのだ。

我ながら驚いたのだが、いつのまにか仕事だってそれまでどおりにこなせるようになっていた。
家で食べる食事がコンビニ弁当にシフトしただけで、仕事終わりに友達と呑んだり、夜遅くまでゲームをしたり、自分なりに充実した日々を送っている。


その日も近所のコンビニでカップラーメンと唐揚げを買ってきてディナーにした。
明日までに仕上げなければならない仕事があと少し残っている。コーヒーでも飲みながらなるべく早めに終わらせて寝よう。

ラーメンを作った際に沸かした湯がまだケトルに残っていたので、インスタントコーヒーの封をきってマグカップに手をかけた。


藍子とは友達の紹介で知り合った。


複数人での飲み会を通じて親しくなり、何度目かの帰り道で向こうから告白された。
家庭的で気立てが良く、可愛いらしい彼女には僕だって負けないくらい惹かれていたので二つ返事でOKした。

藍子とのはじめてのデートは近くの大型ショッピングモールだった。
今まで無縁だったキッチン用品店に立ち寄った際、自炊を一切しない話をしたら彼女は呆れたように笑っていた。

「じゃあ食器もないの?」
「冷蔵庫と電気ケトルしかない」
「それは重症だわ。じゃあ手始めにこれ置いていい?」

そう言って彼女はシンプルなデザインのマグカップを指差した。
気取らないクリーム色のマグカップは柔らかく笑う彼女によく似ていた。

「あんなに幸せだったのにな…」

初デートはよく晴れた気持ちの良い日で、文具コーナーに寄った藍子は仕事で使うメモ用紙が欲しいと言い、その時の空の色と同じメモ帳を買っていた。

マグカップを持つ手にきゅっと力が入った。


End. 2019.05.03

3つのお題をテーマに執筆《コップ》《男》《空》

物好きの投げ銭で甘いものを食べたい。