スズランによせて


 フランスでスタートした風習。それは「5月1日にはスズランを好きな人に贈る」というもの。シャルル9世が、自分に贈られたスズランの花束が気に入り、それからは宮廷の貴婦人に毎年贈ったのが始まりで、19世紀ごろには一般の人の間にも徐々にその風習が広がったという。今でも、5月1日にフランスの町を歩けばスズランの小さな花束を抱えた人が行き来する。

1 幸せが帰るーショパン
 ゴールデンウィークの間の5月1日、歌苗はこの連休の間に音羽館を徹底的に掃除してしまいたいと思いながら、学校から意気揚々と帰ってきた。
 家での仕事も多いとはいえ、朝、目覚まし時計にせき立てられるように起きなくていいのは嬉しい。
「ただいまーっ!」
 晴れ晴れとした気持ちで玄関を開けた歌苗は、リビングに一人でいるショパンに気がついた。いつものように膝を抱えているが、ぼんやりと窓越しの空を見ている。
「あれ、ショパンさん、一人でここにいるなんて珍しいですね。おやつですか?」
「……ネットで頼んだ荷物が今日来るはずだから待ってる」
「あら、また新しいゲームでも頼んだんですか?」
「5月が近づいた時に、ちょっと思い出したことがあって」
 みんなにも教えちゃったけどね、とつぶやくが歌苗には何が何だかさっぱりだった。しかし、ショパンは話すつもりはなさそうだったし、そういう人に詳しく聞き出すのは気が引ける。そこが歌苗の育ちの良さである。
「ねえ、5月って日本でもいい季節だね」
「そうですね、桜は散っちゃったけど、これから梅雨に入ってじめじめする前の、さわやかな日が多いです。五月晴れ、という言葉もあるし……って『日本でも』ってどこと比べてるんですか?」
「ちょっと、フランスに居たときのことを思い出していたんだ」
 そういうショパンの目はどこか遠くに思いを馳せているようだった。
「5月のフランスも、長かった冬も終わって、いろんな花が街に溢れるようになる。で、丁度昔、僕が居た時代の頃から始まった風習があるんだ」
「へえ、それはどんな……」
 歌苗が聞きかけたとき、ドアのチャイムがなった。
「……大家さん、出てくれる?多分僕が注文したものが届いたから」
「!もう、しょうがないですね」
 歌苗は話を聞きそびれた事がやや残念だったが、ショパンの人見知りも熟知しているので、口ではそんなことを言いながらもさっさと玄関に向かった。
 ゲームが段ボールの箱に梱包されているのを予想していた歌苗は、宅配の人が抱えている荷物に目が釘付けになった。

 驚きながらも受け取りにサインをしてリビングに戻ると、ショパンが立ち上がっていた。
 「はい、確かにショパンさんあての荷物でした。でも、どうしてスズランなんか注文したんですか?しかも2鉢?」
「それがさっき、僕が話した風習。フランスでは、5月1日にスズランを人に贈る風習があるんだ」
 だから、と言ってショパンは歌苗に鉢の一つを渡した。
「大家さんにあげる」
「そんな!私いただくようなこと何もしてません!」
「僕が贈りたいから、いいんだよ。ここネット環境もいいことだし」
 そういたずらっぽく言うショパンの言葉に、驚いていた歌苗の気持ちもほぐれた。
「それではありがたくいただきます。本当にかわいい花!」
「花言葉の一つに、『幸せが帰る』というのがあるんだよ」
 ショパンはそう口数は多くない。しかし選ぶ言葉から、歌苗にはショパンの見えにくい、暖かい気持ちが伝わってきた。
 確かに、クラシカロイドと暮らすようになってから、前のように寂しい気持ちで帰宅することはなくなった。父のことは気に掛かるけれど、徐々に子どものような頃の幸せな気持ちが戻ってきている。
「本当にありがとうございます。そのもう一つの鉢はショパンさん用?」
「……他にもスズランを捧げたい人がいるからね」
 じゃ、僕は部屋でゲームするから。そう言ってショパンは静かに微笑むと、スズランの鉢を大事そうに抱え、階段を上がっていった。
「そうそう、大家さんはもう少しリビングで待っててね」
 そう言って振り返ったショパンの目は、いつもの静かな色ながらも、優しさを湛えていた。
 
 
 2 無意識の美しさーモーツァルト
 リビングの机にショパンからのスズランを置くと、モツがいつものように勢いよく飛び込んできた。
「おっかえりー!歌苗!あ、なんかいいことあったって顔してる!すっごく今美人だよ!」
「口でうまいこと言ってもおやつのお代わりはないわよ、モツ」
「ううん、歌苗は本当に綺麗だよ!」
 モツは満足した気分で頭の後ろで手を組み、歌苗を眺めた。
 実のところ、響吾から音羽館に来るように指示され、歌苗と出会ったとき、内心がっかりしていた。
 歌苗の表情が気に入らなかったのだ。
 暗く、どこかあきらめきった表情。明らかに僕たちを迷惑に感じているのも分かった。
 若い女の子と暮らせる!そう思って来たのにな。

 しかし、ともに暮らすにつれ、歌苗の表情がどんどん豊かになっていった。
 まあほとんどは怒ってるけど。
 でも、怒る、って僕たちの相手してくれてるからでしょ?この世界に来てから「愛の反対は無関心」という言葉を聞いた。歌苗が僕らに怒るって事は、ちゃんと僕たちに心を置いているからだよ。
 僕が子鹿を育てようとして山に籠もっていたときも、なんだかんだ心配して探しに来てくれたし。
 今、僕たちと歌苗の間には、きちんと気持ちの行き来があると思う。
 うん、目の色や表情がくるくる変わる歌苗は本当に綺麗な女の子になってるよ。
「で、怒らせてるお詫びに、これ!」
 そこで差し出されたのは、ショパンと同じ、スズランの鉢植え。
「昨日チョッちゃんにそのフランスの話聞いてさー、素敵だね!って事になって歌苗にスズラン贈ろう、って決めたんだよ!受け取ってね!」
「あ、ありがとう……」
 勢いに気圧されながらも、歌苗は反射的にスズランを受け取った。と同時に、ショパンのさっきの謎めいた言葉も分かった。
 みんなが、私にスズランを用意してくれてる。そのことだけでももう胸が一杯だ。
「僕はね、このスズランの花言葉で『無意識な美しさ』が歌苗にぴったりだと思ったんだ!」
「歌苗の顔、本当に生き生きして綺麗だよ。自分では気づいていないだろうけど。でもその自分で気づいていない、ってところが又一つの魅力だよねー!」
 天然タラシだ、こいつ。歌苗は不意打ちのモツの言葉に真っ赤になったが、次の言葉で我に返った。
「おっぱいは相変わらず健気だけどねー!」
「一言余計だー!!」
 歌苗は思わずそばにあった学生鞄を、モツの顔にめがけてぶん投げた。

 3 ピュアーリスト
 モツが「歌苗、ひっどーい」とぶつぶつしながら退散していくのを、ハアハアと息を切らせて見送っていた歌苗は、リストが玄関のドアを開けて入ってくるのに気がついた。
「あら、どうしたの?子猫ちゃん?そんなに怒った顔をして」
「……いや、いつもの事です」
 そう言って脱力した歌苗の頭を、リストはよしよしと頭を撫でた。
 本当にかわいい子猫ちゃんよね。
「そんなに怒った顔をしていると、可愛い顔が台無しよ?」
「もう、リストさんまで、止めてください」
 むうとむくれる歌苗の顔を見て、なんて素直なんだろうとリストは思う。
 その真っ直ぐさは、もしかしたら若さ特有のものかもしれないが、リストは、子猫ちゃんの本質だろうと考えていた。
 だって、普通考えたら、よく分からない大人達、というかクラシカロイド達を自分と同じ屋敷に住まわせるなんて、たいした度胸じゃない?
 女の子ならもう少し危機感持ってもいいんじゃないかと思うけれど、彼女の真っ直ぐさに、クラシカロイド達も救われているのだとリストは考えている。
「あら、もう何人からかスズランを受け取っているのね?じゃあ私からも、はい!」
 そう言って、たくさんの買い物袋の中から綺麗にラッピングされたスズランの鉢植えを歌苗に差し出した。
 流石(今は)女性らしく、美しいリボンまでつけられている。
「リストさんも用意してくれたんですか……いつもお家賃もちゃんといただいているのに……ありがとうございます」
 嬉しそうに鉢を抱えてお礼を言う歌苗を、リストは微笑んで見つめた。
 昔、女性に花を贈ったことは数知れないけれど、今歌苗に贈ったときとは気持ちが違う。
 女性に恋の駆け引きの一つとして花を贈るときは、刹那的なスリルもあったけど、この子猫ちゃんに花を贈ると、何か暖かい気持ちが生まれてくる……。そう、この感情も。
「これも愛なのねー!」
 唐突に叫ぶリストには慣れている歌苗なので、スルーしていたが、ふと聞いてみたくなった。
「リストさんは、スズランの花言葉って、ご存じですか?」
 自分で自分を抱きしめてうっとりしていたリストは、歌苗の方に向き直ってにっこりした。
「もちろん!スズランにはいくつもの花言葉があるのよ。その中で、私が子猫ちゃんにぴったりだなと思うのは『ピュア』」
「ピュア?」
 あまり自分に向けられない言葉で、歌苗は思わずオウム返しに聞き返した。
「そう、真っ直ぐで、本当に純粋な子猫ちゃん。私たちは、あなたのピュアさが本当にかけがえのないものだと思っているのよ?」
 リストは、その胸に歌苗をぎゅうっと抱きしめた。

 4 リラックスーシューベルト
 「あれ、私は4番目でしたか」
  そう言って入ってきたのはシューベルトだった。テーブルの上のスズランを素早く数えたらしい。
 リストの豊かな胸に窒息しそうだった歌苗は、ほっとした気持ちでシューベルトを見た。よく一緒に家事をするシューベルトには、気安さを感じていた。
「シューさん、お帰りなさい。そういえば今日お使いお願いしていたんでしたね。ありがとうございました」
「いえいえ、音羽館に住まわせてもらっているのですから、これくらい当然です!他になにかありませんか?」
「いいえ、大丈夫です。まずは休憩しませんか?コーヒーでも」
 インスタントですけど。
 にっこり笑う歌苗を、シューベルトは穏やかに見ていた。
 大家殿は、本来優しいお嬢さんなのだというのがシューベルトの意見だった。
 そりゃよく怒っている声を耳にするが、それはお前が余計なことをして怒らせているからだ、モーツァルト!
 そしてベートーヴェン先輩……言いたくありませんが、火炎放射器で家を焼きかけたり、公園でパンダを死守して子ども達を困らせ、ひいては大家殿を手こずらせているのは、正直、いかがかと……。
 そしてショパン……いかんいかん、このままでは魔王道に突入だ。今はそれをしている場合ではない。
 シューベルトは気を取り直すかのようにコホンと咳払いした。
「もう事情はご存じだとは思いますが、私からもスズランを」
 そう言って、買い物袋を床に置き、スズランをきちんと両手で渡してくれた。
 きっとお使いの合間に探してくれたのだろう。
「ありがとうございます、シューさん!こんなにみんなから花をいただけるなんて思っていなくて……嬉しいです!」
 ニコニコとお礼を述べる歌苗に対し、シューベルトも穏やかな笑顔で頷き返した。
 ほうら、見ろモーツァルト。大家殿は怒ってばかりではない、非常におっとりと対応してくださるぞ。
 お前が怒られているのは、お前が甘ったれているからだ!マザコンとは言え、大家殿に甘えるのもほどほどにしろ。少しは私を見習って家事をしろ!
「あ、あの、シューさん?」
 シューベルトがふと気がつくと、歌苗が怪訝そうにシューベルトをのぞき込んでいた。
「なんだか怒っていらっしゃるようですけれど……」
「い、いいえ!そんなことはありません!大家殿!今ちょっと考え事をしていただけで!第一、私はそのスズランの花言葉『リラックス』が大家殿にぴったりだと思っているくらいです!」
「え、どういうことでしょう?」
「いや、大家殿は本当にみんなをリラックスさせてくれる存在だと常々考えているのです。みんなが好きなように生活できているのは、大家殿のおかげです!そのありがたみを一体モーツァルトは分かっているのか。そしてベートーヴェン先輩……尊敬する先輩にあまり言いたくないのですが……」
「い、いやシューさん、ですから今全然リラックスしたお話になっていない……」
「それはモーツァルト達のせいです!」

 5 再びやって来る幸せーベートーヴェン
「おい、何を騒いでいるのだ」
 噂をすれば何とやらで、ベトがリビングに入ってきた。手にはやはりスズランの鉢植え。
「せ、先輩!」
 シューベルトは雷に撲たれたようにびくっとし、「では、冷蔵庫に食材をしまってまいります!」と、買い物袋を掴んでさっさと台所に行ってしまった。
「ベト、いつの間に帰ってきたの?」
「たった今だが?」
「そう」
 それきり会話が途絶えてしまった。ベトが手にしているスズランは、今までの流れから考えて歌苗に贈るためだろうとは見当がつくのだが、まさか自分から「それ私にでしょう?ありがとう」と言い出すわけにもいかない。
 さらには、どういう気持ちでベトが贈ってくれるのか、知りたいような、知りたくないような気持ちだった。
 それどころか、もし何にも考えずに、みんなに流されてスズランを用意したのだったら、どうしよう。

 そこまで考えて、歌苗は頭を振った。
 それはベトに失礼な考え方だ。ベトは人に流されて何かをする性格ではない。みんながどうしようが、自分の行動は自分で決める人だ。
 
 そこまで考えた時、ベトの声がした。ただし、いつもの自信に満ちた声ではない。
「小娘、これは俺からだ」
 やや目をそらせながらスズランを差し出してくるベトの緊張が、歌苗にも移ってしまったようだった。
「あ……ありがとう」
 もっときちんとお礼を言うべきだと思うが、スズランと歌苗の間には微妙な距離がある。手を伸ばしてよいものか、考えあぐねて、ベトから差し出してもらおうと思い、言葉をかけた。
「ベトも用意してくれたなんて嬉しい」
「どうして俺も、という話になるのだ」
 ベトはその質問が意外だったらしく、不思議そうに聞き返した。スズランと歌苗の距離は相変わらずだ。
「だって、他の人はもしかしたらショパンさんの話を面白がって、のっただけかもしれないけれど、ベトは贈るか贈らないかは自分で決めるでしょう」
 ベトは嘆息した。
「お前は二つ大きな考え違いをしている」
 いつの間にか、いつもの自信に満ちたベトの声だった。
「一つ目、みんなが面白がってスズランを贈ることにしたのではない。それぞれ小娘には感謝の念を抱いている。だから自分の意思で、花を用意したのだ」
「そして二つ目、俺も……小娘にやりたいと思ったのだ。スズランの『再びやって来る幸せ』という花言葉を聞いたことがあるか」
「ううん」
「ま、俺も昨日知ったのだが」
「なんなのよ、それ」
「しかし、それを聞いたとき、まさしく俺の感情を表していると思った」
 ベトは真っ直ぐ歌苗の瞳を見た。
「ここで小娘と暮らしていて、二度と感じることはないと思っていた幸せを感じることができた」

 歌苗は驚きのあまり、声も出ない。
「そして、お前も幸せならいいと思ってスズランを手に入れたのだが……受け取ってくれるか?」
 
 いつの間にか、ベトの声にはまた張りがなくなっていて、歌苗は思わず手をさしのべた。
「もちろん!本当に嬉しい!」
 もう歌苗は遠慮しなかった。ベトの手から奪い取るようにして、スズランの鉢を抱える。
 ベトが、私と暮らして、幸せだと言ってくれた。
 その言葉で、私の方が幸せを感じている。
 嬉しさでぼうっとしながら両手で鉢を持ち、スズランをのぞき込んでいると、ふと体中が暖かくなった。
 
 歌苗は、ベトにスズランごと抱きしめられていた。
 
「……ありがとう。大事に、するね」
 自分でも顔が真っ赤になるのが分かったし、自分の腕や背中にあるベトの腕に意識をとられそうになりながらも、やっと伝えた言葉。
 スズランがつぶれないようにしなきゃ。あえて明後日のことを考えて気持ちを静めようとするけど、高ぶった気持ちは落ち着きそうにもない。
 歌苗にはスズラン以外にも大事にしたいものがある。
 ベトは歌苗の言葉を聞いて歌苗を抱きしめる腕の力を強めた。


 テーブルの上に並べられた、5つのスズランの鉢植え。
「……掃除の前に、これみんな庭に植えようかな」
 うっとりとしながら独りごちた歌苗の鼻を、スズランの甘い香りが強く撲った。

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