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なぜ通訳しようとするのだろう

松本道弘『新 give と get』(朝日出版社、2000年)を読みなおしている。

日本語⇔英語の表現ギャップが示す文化的な面白さ、「この日本語を英語でどういうか」を追求するときに味わえる知的飛躍の面白さが、同時通訳者・松本氏の情熱を支え、日本人読者の支持を得ていたことがわかる。

だが、今読むと、疑問もわいてくる。

プロの通訳になる人は少ない。多くの人にとって、「この日本語を英語でどう言うか?」「この英語は日本語ではどういうか」を知っていることが、ほんとうに「英語ができる」ことなのだろうか、という疑問である。

日本語に訳せなくても、英語ネイティブは英語ができる。外国語に訳せなくても、われわれは日本語ができる。

日本語の能力を直接活かして英語を習得しようとすると、「通訳」的方法が便利に思えるし、前述のように、知的飛躍の面白さが味わえることもある。

だが、英語の意味が日本語で表せるかどうかは、英語自身にとっては関係のないことであるし、ほんらい、英語学習にとっても副次的なことであるはずだ。

「通訳」は、英語そのものとは別に、特殊な訓練が必要な、特殊な技能なのである。
通訳になるわけではない多くの人にとって肝心なことは、英語そのものを覚え、英語として聞きとり、読みとり、英語として書き、言えることである。

そう言うと、「それができないから、苦労しているんじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。

それを可能にするために、私は TransGrammar をつくるのだ。

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