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題... 啓蒙思想という考え方

◆ “啓蒙”というスタンス。

 実は、私は、自分で自分のことを“啓蒙思想家”と思っています。
 世間の多くの人々が、本心では自分のことをそう思っているはずだとも思っています。そうでなければ、一億総評論家よろしく、“誹謗中傷の煽り”などがこんなにも社会に溢れるはずがない。
 でも、“啓蒙思想”という言い方をすると、何か、わけがわからなくなります。いわゆる七面倒な議論になってしまい、私の脳みそが混乱してしまいます。
 ところが、“啓蒙”ということなら、私にも理解できる。啓蒙とは、“人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと”らしい。[ #啓蒙 ]
 ただし、啓蒙には、ある種の差別的なニュアンスもあり、使用には注意を要することばとか。要は、“何を生意気なことを言っているのだ”と受け取られがち
 私も“啓蒙”ということについてはそんなイメージでとらえています。


◆ 最近、“啓蒙”ということも大切だと気づきました。

 私は、以前より、社会を平穏に維持していくには、“社会相対性理論”を理解して“達観力”を身に着けなければいけないと指摘してきました(→ 注1)
 この考え方を世間に普及させるには、とにもかくにも、あらゆる機会を利用して啓蒙することが大切と思っています。私は、今、“啓蒙”ということに凝っています。
 ついでにと言っては何ですが、私は“清貧で崇高であること”が目標。なので、“清貧でなければ崇高になれない”というのも、私の命題のひとつです。[ #崇高 ]
 このことについては、また、別の機会に論じることにします。

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●(注1)  社会相対性理論や達観力などについては、2014.1.17のブログ 『社会相対性理論と達観力』をご覧ください。[→ http://bit.ly/2czNfe1


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