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#04 世界を救いたいあなたへ

「世界を救いたいなんて思って世界を救う人なんていない、世界が救われるとしたら、世界はある人が愛する人を守ろうとした行為の延長線上に救われているに過ぎない」

という趣旨の小説が、まだラブコメを素直に読めた頃の自分は大好きでした。

職業柄、世界を変えたい、社会貢献したい、人々を救いたい、という人たちにとても多く出会います。他意なくそれを信じ、実践することができる人を素直にすごいと思う自分がいる一方で、中途半端に組織に属しながらそれを発する人を見ると、問いかけたくなる自分もいます。

私は世界を救いたい、と思ったことは一度もありません。

私は目に見えない誰かや何かを信じて自分の身を捧げることはできない。遠い地域の紛争や、貧困を"自分ごと"として捉えることはできない。漠然とした大きなもののために意味があるのかわからない努力をひたすら続ける強さは、少なくとも今の私にはありません。

こういう発言をすると、信じられないとか、思いやりがないとか、そういう目で見られることがときどきあって、そのたびに座りの悪い心持ちがします。

私が救いたい、とは言わないまでも、このために頑張りたいと思うとき、そこには具体的なシーンや具体的な"誰か"の顔が浮かびます。
この人との出会いやこの経験があったから今の私があって、その"私をつくる具体的ななにか"のために頑張りたいーそれが私の1番のモチベーションになるのです。

もちろん、だからと言って、その努力の過程がクリアだとか、意義があるとかいうつもりはありません。意味があるのか問い続け、無力感に苛まれ、途方に暮れる日々だってたくさんありました。

それでも、そんなときに踏ん張りがきくのは、それがあくまで"私自身と結び付いた何か"だからなのだと思います。

こういった人ばかりでは世界はいつまでたっても良くならないだろうからー"良い"の定義は別の議論としてー、本気で世界を救う人の存在はとてもありがたいのだけれど、

世界全体を救いたいと思うのでなくても、具体的な誰かや何かのために尽くそうと思うことが、微々たるものであっても、めぐりめぐって世の中を変えていくということもありうるだろうと、私はいまだに信じています。

だから、こういう在り方も許容してほしいな、なんて、我が儘かもしれないけれど、思ったりしているわけです。

※写真は「イスファハーンは世界の半分」時代のイスファハーン@NY自然史博物館

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元フィールド系社会学徒兼校正屋さん
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