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『気を遣う』ことを求める人

shinshinoharaさんのnoteで『気を遣う』と『気が利く』の違いを書かれています。

どう違うかについては、リンク先を見ていただくとして、『気を遣う』と『気が利く』は、意外と相手にばれてるものだとも思いました。

例えば、旅館だったりレストランでサービスを受けたり、あるいは、仕事場などで「気を遣わせちゃったな」と思うときも、「お、気が利いてるね」と思うときもあると思います。

ということは、やっぱり、相手にもバレてるんですよね。

そして、「気を遣ってもらった」と感じたときは、だいたいの人は、「却って申し訳なかったな」と罪悪感に近い感情を多かれ少なかれ持つと思います。

逆に、「気が利いてるね」と思ったときは、気を利かせてもらったことを、素直に喜べる心持ちになっているのではないでしょうか。

相手に、変な心理的負担を負わせないことが、サービスの本義だとするならば、「気を遣ったサービス」より「気の利いたサービス」の方が、より、目的を達しているのだと思います。

また、shinshinoharaさんのリンクでは、「部下から見て気を遣わせる上司」の発生メカニズムも説明されています。ここで書かれているように、意図せずして「気を遣わせる上司」になってしまう人もいます。

一方、意図的に部下に気を遣わせたがる上司、と言うタイプがいるのも事実です。だいたいそういうタイプの人は、「自分がそれまで目上の人に気を遣ってきた」という自負があります。そして、「気を遣う」ことで社会的な評価を得てきた。

shinshinoharaさんは、「気を遣う」背景に、

こんなことをしたらどう思われるだろう?あんなことをしたら変に思われるかな?と、自分の見え方を気にしているのが、この場合の「気を遣う」なのかもしれない。

と、ありますが、逆に言えば、「気を遣う」ことで、自分の見え方、すなわち、社会的評価を積み上げて、地位を高めてきたという自負にも繋がります。

そして、いざ、地位が上がると、「自分はこれだけ気を遣ってきたのだから、地位が上がった今、目下の立場のものには気を遣われて当たり前」という感情を持ち始めます。

そうなると、「気を遣ってもらった」という感情を受け取ることが、本人にとっての、社会的なゴールとなります。要は、尊重して欲しいのですね。

この場合、「気が利く」行為はむしろ、自尊感情を傷つけます。「気を遣う」とは、ある意味、「気を遣われる側が把握想定する範囲内でミスや失態がない状態を作ること」が「気を遣う」です。つまり、成否決定の主導権が、「気を遣われる」側にあります。

それに対し、「気が利く」行為は、「気を利かせる側」の自発性によっています。これは、把握管理を旨とする「気を遣わせたい、気を遣ってもらいたい上司」からすると、権限や情緒を侵害された気持ちになります。

そう、「気を遣われる」ことを望む人に対して「気を利かせ」てしまうと、「目下のくせに、俺が管理できる発想外のことをするとはけしからん」と言う感情になるわけです。

これもまた、「気を遣う」人の周りには「気を遣う」人が集まり「気を遣う文化」が育ち、「気が利く」人の周りには「気が利く」人が集まり「気が利く文化」が育つ要因となっていきます。

どちらが良い悪いではないです。様々な組織や会社を見ている中で、「気を遣う」文化の会社や組織の方が、従業員の統一感が取れる傾向にあります。右向け右を言う前に右を全員が同じタイミングで同時に振り向ける。これはこれで、組織としての強みです。この強みが生きる業界だったり、ビジネスのステージはあると思います。

が、私は「気を遣う」より「気が利く」文化の方が、個人の自主性が尊重され、ハッピーでピースフルかなあと感じています。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683