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正しく愛を、受け取ろう。

#私のパートナー  というお題が出ていたので、

妻と息子と3人暮らしの、サラリーマンが考えてみました。

与えることがすべて  だと思い込んでいた

家と車のローン。家族の食費をまかない、
息子の学費・習い事も払い、休日には外食し、それなりに旅行にも連れて行っている。
皿も洗うし、料理もする。洗濯物もたたむし、裁縫だってする。
家族に与えられるものは、全て与えやろうと思っている。
人並み以上に立派な夫であり、父親でありたいと思っている。

最近、妻がパートをはじめ、息子が4歳になり気づいた事がある。

息子におもちゃの車を買ってやる。
息子は「パパも、あそんでいいよ。」と言う。
僕は小一時間、その車で遊ぶ。
息子が満足そうな顔で僕を見る。

嫁にパート代が入った。
なんでも、服をかってくれるという。
少し悩んだ後、思い切って、職場用のリュックも頼んでみると、
「これなんかどう?!」
と、楽しそうにZOZOで見つけたオススメを提案してくる。

プレゼントする人って、本当に幸せそうだよなぁ。

僕は少し、考えさせられた。

与えることだけが、愛なのだろうか?


一方的に与え続ける事はエゴかもしれない

むしろ、一方的に与え続けようとする行為は、エゴなのかもしれない。

与えることに腐心するあまり、受け取ることの大切さを

僕たちは忘れていないだろうか?

息子がくれたお菓子を、「いいからお前が食べなさい」と返したら、
息子が貸してくれたオモチャを「パパはいいから。」と返したら、
嫁に「自分で稼いだのだから、自分の服を買いなよ。」と言ったら、

その瞬間、僕は相手を否定してしまうかもしれない。
自分の価値を相手に押し付けてばかりで、相手の意味を、奪っていたかもしれない。

それは、なんとも乞食の様にさえ思えてきた。


家族だけじゃない。世の中みんな、与えて、貰っている。

愛情を注ぐ相手が存在し、感謝を得たとき、人は自分の意味を感じることができる。人生の充足を得る。

災害が起きると、多くの人々が被災地へ駆けつける。
歌手は歌を紡ぎ自衛隊を励まし、アイドルは東北行脚し、企業は物資を届け、名も無き多くの一般の人々も連れたって現地へ向かった。
前職の会社の先輩も何日かかけて被災地へ行っていた。

雪かき体験ツアーなるものが、一時世の中を驚かせた。豪雪地帯で若者が少ない地域へ、雪かきをしに行く事ができるというツアーだ。なんら金銭報酬は払われないにも関わらず、
人気ツアーとなり多くの若者が参加した。

“1L for 10L”  エビアンが水の購買と引き換えに発展途上国へ飲料水を届ける事を約束したキャンペーンは、多くの賛同を得た。

誤解を恐れずに言えば、ここで ”与えた” 人々は、自分の意味を ”貰った” のだとも思っている。
特に現代社会は、そうだと思う。

物質的に満たされ、士農工商も無く、自由に自分の意味を選べる様になった現代は、その一方で、
自分の生きる意味や、存在意義を探す社会的プレッシャーを僕らに課してくる。

今、僕が広告業界で働くことを志すきっかけになった本と、大学時代にであった。
「自由からの逃走」というその本は、”自由ほど恐ろしものは無い”と、衝撃的なことを語りかけてきた。
物質的に満たされた僕らの世代の、求めるリターンは、必ずしも金銭ではない。

let them give. 正しく愛を受け取ろう

与えさせよう。
正しく愛を、受け取ろう。
それも愛情。
それは、相手に意味を与える。

必要とし、必要とされ、意味を与えあえる 関係。

それが、あるべきパートナーの形ではないでしょうか。



いつも、ハイボール飲みながら書いてます。有り難く、ハイボール代にさせていただきます!