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三上於菟吉という人とその魅力――『銀座事件』文庫巻末解説【解説:湯浅篤志】

MM PROJECT文庫『銀座事件』刊行記念としまして、
巻末に収録の湯浅篤志先生による「解説」を特別公開します。



『銀座事件』巻末解説 「三上於菟吉という人とその魅力」

解説:湯浅篤志

 三上於菟吉は、大正から昭和の初めにかけて、時代を駆け抜けた大衆小説作家の巨人である。明治二十四(一八九一)年二月、於菟吉は当時の埼玉県中葛飾郡桜井村、現在の春日部市で、地主で漢方医を営んでいる父純太郎、母まさの三男として生まれた。長男、次男とも早く亡くなってしまったので、健康に育つようにと、中国の故事に由来した〈寅〉の意味がある「於菟吉」と命名された。
 祖父玄順は文人肌であり、父もまた漢籍を読みふけっていて、蔵書家でもあった。村の知識人といわれる家庭に育った於菟吉は、小学校の頃から本が大好きだった。明治三十七(一九〇四)年には当時の粕壁中学校を受験し、二番目の成績で合格したそうである。中学校では文芸部に所属し、執筆活動に励んでいた。博文館の雑誌『文章世界』や『中学世界』などにも文章を投稿し、『文章世界』明治四十二(一九〇九)年二月号には「我は現実に立脚する青年なり」という論考が二等に選ばれたこともあった。
 しかし両親は於菟吉を家業の医者にしたかったようであり、彼もいろいろと悩んだ末に、文学の道に進むことを決心したようだ。粕壁中学校卒業後、大学の医学部を受験するが失敗。そこで文学を志すに至り、明治四十三(一九一〇)年に、早稲田大学英文科予科に入学する。同級には宇野浩二、一つ下には直木三十五、一つ上には谷崎精二、広津和郎らがいた。明治四十五(一九一二)年に、宇野浩二らと同人誌『シレエネ』を発行。於菟吉は、三上白夜という筆名で「薤露歌」という小説を発表するが、発禁処分を受けた。創刊号で終わった雑誌となった。
 於菟吉はその頃、学校にほとんど行かず、文学に耽溺する一方、神楽坂で芸者遊びなど放蕩を重ねていた。怒った父に大学を退学させられる。大正の初めには、故郷の春日部市へ戻っていたのだ。暗い離れに監禁の身となった於菟吉は、憤然として、手当たり次第に古今東西の書物を読み続けていたらしい。この時期の活発な読書生活が、於菟吉のエネルギッシュな大衆作家としての養分を培ったのはいうまでもないだろう。
 大正三(一九一四)年、父が心臓病で倒れた。於菟吉はそれをきっかけに家督を継ぐ。だが父が回復すると、財産を処分して家族ぐるみで上京したそうである。その具体的な時期は不明。ちなみに父は、大正九(一九二〇)年に亡くなっている(実松幸男「 於菟吉以前の事」/『三上於菟吉再発見』三上於菟吉顕彰会・編、二〇二一年より)。
 上京後、於菟吉は毎夕新聞社の社会部記者となった。しかし、三ヶ月ほどしか続かなかった。そして、ついに作家として身を立てる決心をしたようだ。大正四(一九一五)年八月に長編小説『春光の下に』を自費出版した。於菟吉は、この本を当時、美人伝名婦伝の美人作家と知られていた長谷川時雨に献本。それをきっかけにして時雨との交際が始まり、その後、同棲に至った。しかし『春光の下に』は、朝鮮独立運動に触れたため、発禁になってしまった。
 大正六(一九一七)年八月、大学から親友であった詩人の三富朽葉と今井白楊が、千葉県銚子の犬吠埼君ヶ浜で溺死するという事件があった。彼らの死に打ちのめされた於菟吉は、これを機に一層文筆に打ち込むようになった。この頃の彼の作品は、自らの芸術を高めようとする主人公の志と、愛する女性への欲望の間で煩悶する内容が多い。大正期前半の文壇を支配していた心境小説、告白小説の色合いが強く、文壇作家として名をなそうとしていたと思われる。
 だが、作品の評価は今ひとつで、不遇の時代が続いた。心配した長谷川時雨は、博文館の雑誌『講談雑誌』の編集をしていた生田蝶介に相談をし、水上藻花というペンネームで「元禄怪異 呉羽之介の絵姿」という時代小説を『講談雑誌』大正八(一九一九)年夏季特別増刊「長編揃一大事」号(五巻七号)に載せてもらうことができた。これはオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」を下敷きにした作品であったが、その後の於菟吉の小説製作手法が現れているといってもよいだろう。つまり、外国の作品を参考にしながら、作品を創作するのだ。またこの物語は、本巻に収録した「艶容万年若衆」の初稿といってもよい作品で、文章の違いは少しあるものの、主人公の名前、内容構成はほぼ同じになっていた。

 於菟吉は、大正七(一九一八)年の秋頃から、海外の文学作品をたくさん翻訳するようになった。生活の糧を稼ぐためだったかもしれない。大正八年九月には、大学で一年上だった谷崎精二との共訳本、アレキサンダー・デュマ『モントクリスト伯爵』前編を、続けて十一月には後編を新潮社から刊行し、よく売れて、ようやく一息つけたということである。
 一方で『講談雑誌』には、大正十(一九二一)年一月から、現代物の通俗小説「悪魔の恋」を一年以上連載するようになり、好評を博した。この小説は、主人公の江馬勇が自らの出自を孤児だと知って、さまざまな試練の後、孤児院を建設、妻とともに経営する話である。主人公の成長物語として読めるだろう。またこの頃には、ダヌンチオ『死の勝利』、エミール・ゾラ『恐ろしき悪魔』『若き歓楽』『貴女の楽園』『獣人』なども翻訳していて、精力的に執筆をしていたことが窺える。
 その後、於菟吉はだんだんと大衆向けの通俗小説を書くようになっていった。物語の主人公には、美しい青年が多く、彼の出世欲と女性に対する愛欲との葛藤、またそれによって翻弄される女達の姿が描き出されていた。読者ウケもよく、於菟吉の作品は、新聞や雑誌を問わず掲載されるようになり、流行作家の道を突き進んでいった。
 そして三上於菟吉の名前を全国に知らしめたのが、大正十三(一九二四)年七月から十二月まで『時事新報』に連載された初めての新聞小説「白鬼」<しろおに>であった。
「白鬼」は、美貌の青年、細沼の成り上がり物語(ピカレスク小説)である。細沼は前向きに事を捉えて生きている。仕事もでき、自分の美貌やニヒルなトークを武器にして、女達を手玉に取っていた。新聞連載時においては、画家の大橋月咬の迫力ある挿絵とともに、細沼のハードボイルドな姿は、読者を捉えてはなすことはなかった。新潮社から単行本になるときは、その広告に「シロオニズム」という惹句も使われた。当時、流行していた谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミズムに対抗していたのだ。
 次に三上於菟吉の名前が世間に知られたのは、これもまた新聞連載小説であった「日輪」が、映画化されたときだった。三上於菟吉の描いた「日輪」は、『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』の大正十五(一九二六)年一月一日付から七月二十一日付まで連載されたモダンガール物語である。旧弊な長沼家の一人娘、徳恵子が両親の決めた結婚に反抗して家を飛び出した。彼女には、家の門番の息子、城木という愛する人がいたのだが、身分の違いから両親に反対されていた。彼女は家出の後、経済的な苦難、強欲な人間達との出会い、大きな事故などを経て、再び城木と出会い、明るく輝く朝を迎えるという話であった。
 同じ年の「日輪」の映画化は、聯合映画芸術家協会と日活大将軍の二社による競作であった。この当時、一つの原作小説に対し、その映画化をめぐって数社が競作をすることがあった。映画会社がそこまでするのは、原作が掲載される新聞や雑誌の読者を映画館に呼び込めるからであり、また新聞社のほうも販路拡張を狙って、映画会社に連載小説の映画を作らせようとしていた事実がある。
「日輪」の映画化の場合、聯合映画芸術家協会製作のほうはあまり話題にならなかった。ところが、日活の製作した村田實監督、岡田嘉子主演の「日輪」は、『キネマ旬報』大正十五年度の映画ベストテンの第二位になる大ヒットを記録している。これをきっかけにして、原作者の三上於菟吉の名前は小説界だけでなく、映画界にも広まっていったのである。
 三上於菟吉の描く時代劇も人気があり、最初に映画化されたのは、『週刊朝日』に大正十四(一九二五)年十月〜十五年四月まで掲載された「敵討日月草紙」であった。アメリカの作家ジョンストン・マッカレーの「双生児の復讐」からヒントを得た作品だった。この物語の特徴は、双子の榊右近、左近の神出鬼没な姿であった。大正十五年春に日活で映画化されたのであるが、この双子の役に、歌舞伎役者上がりの二枚目俳優、片岡松燕が配され、後の「雪之丞変化」<ゆきのじょうへんげ>につながっていく設定になっていた。当時は、時代劇映画全盛だったので、「日輪」ほどではないが、それなりにウケたようである。
 その後も、三上於菟吉の描く長編連載小説は、新聞、雑誌界を賑わす。新聞連載、雑誌連載は途切れることなく、毎日のようにどこかで三上於菟吉の作品を目にすることになった。さらに現代劇時代劇を問わず、映画化されることも多かった。
 売れっ子作家になった於菟吉は、昭和三(一九二八)年には、長谷川時雨が中心となった雑誌『女人芸術』に資金を援助して、彼女の女性運動も支えていた。そのとき、同誌にいた林芙美子の才能を見出し、彼女の作品に「放浪記」という副題をつけたのも、於菟吉であった。
 そして、なんといっても、三上於菟吉の名前を後世まで語らしめたのは、昭和十(一九三五)年に松竹で衣笠貞之助監督、林長二郎(長谷川一夫)主演で映画化された「雪之丞変化」<ゆきのじょうへんげ>であった。三上於菟吉原作の「雪之丞変化」は、『朝日新聞』夕刊に昭和九(一九三四)年十一月七日付から翌十年八月二十二日付まで連載されていた。
 この作品は、アレキサンダー・デュマ「モントクリスト伯爵」、ジョンストン・マッカレー「双生児の復讐」を下敷きにして、歌舞伎「白浪五人男」の弁天小僧、「三人吉三」のお嬢吉三などからヒントを得て翻案したものといわれている(潤幸造「代表作「雪之丞変化」誕生と、その後」/『三上於菟吉再発見』より)。
 映画化は、「雪之丞変化」が新聞連載中にもかかわらず製作上映され、その際、監督の衣笠貞之助は、原作にはない一人三役という手法を映画に取り入れた。それが功を奏し、物語の面白さをさらなるものに引きあげていた。これは、原作と映画化された作品との違いを考えるうえで、今も昔も変わらない製作手法の問題だといえるだろう。興行成績においては、続映につぐ続映となり、結果的に会社の純益も現代の価値に直して百億円近くとなり、松竹が蒲田から大船に移転できたのは「雪之丞変化」、内部が整ったのは「愛染かつら」という、まことしやかな噂も流れていたのだ。
 映画の大ヒットによって、昭和十年七月に平凡社から発行された『三上於菟吉全集』第一巻には「雪之丞変化」前編が収録され、記録的に売れた。また、翌十一(一九三六)年一月には、三上於菟吉が自ら起こしたサイレン社から単行本として出版している。
 このように三上於菟吉の名前は、「雪之丞変化」によって、誰もが知るようになり、大衆通俗作家の大きな頂きとしてそびえることになった。三上於菟吉の作品は、その面白さが人々を捉えるだけでなく、映画化されても俳優たちのきらめきをスターとして際立たせることのできる力強さをもっていた。まさに、映画へのアダプテーション効果を最大限に発揮できる、テンポの良い視覚的描写のわかりやすさが特徴だったのだ。大衆の好みに合わせた刺激的な作品が、三上於菟吉の名前をさらなる高みへと押し上げていることが注目されるだろう。

 ところで、昭和九年二月に亡くなった直木三十五を記念して、同じ年の十二月には菊池寛の文藝春秋社によって、直木賞が創設されていた。直木三十五の盟友だった三上於菟吉も第一回から銓衡委員に加わっている。於菟吉は、直木三十五とともに、大正十一(一九二二)年に出版社、元泉社を起こしたことがあった。が、しかし関東大震災で倒産している。また、昭和七(一九三二)年には、映画「満蒙建国の黎明」(溝口健二監督、新興キネマ)の原作を直木三十五といっしょに執筆していた。
 第一回直木賞は、昭和十年上半期におこなわれたのだが、於菟吉は主査であった。それだけ、文芸に対する信頼が厚かったのであろう。幼い頃から文学に親しみ、若い頃には心境小説(「純文学」)の煩悶を経て、「白鬼」「日輪」などによる大衆文芸のヒットを経験し、読者が面白がる数々の作品を苦労に苦労をして量産し続けてきた姿を、誰しもが納得していたからかもしれない(川口則弘「直木賞に刻まれた大衆文芸観」/『三上於菟吉再発見』より)。
 その一方で、於菟吉は昭和九年の秋、自動車事故に遭い、利き腕の右手を痛めてしまった。口述筆記や代筆で作品を書くようになったが、怪我のすぐ後から始まった「雪之丞変化」の連載にはそれを微塵も感じさせず、また直木賞の銓衡も滞りなく進めている。その後ろに、長谷川時雨の姿があったのはいうまでもないだろう。

 しかし、昭和十一年八月の初め、於菟吉は脳血栓症を発症し、一週間ほど生死の境をさまよった。意識は戻るが、右半身不随になってしまう。この頃から創作活動は少なくなった。長谷川時雨の懸命の看護もあったが、昭和十六年(一九四一)年八月に、その彼女も亡くなった。失意の於菟吉は、その二年後、郷里の春日部市に疎開。読書の日々を送っていたが、昭和十九(一九四四)年二月脳血栓症を悪化させて死去。享年五十三であった。
 ——三上於菟吉は、まさに時代を全速力で駆け抜け、急ぎすぎた作家といえるのではないだろうか。以下に本巻に収録した「銀座事件」「艶容万年若衆」について、簡単な説明を記しておく。

■銀座事件


「銀座事件」は、『主婦之友』昭和五(一九三〇)年一月号(一四巻一号)から十月号(一四巻一〇号)まで掲載された。目次には、すべて「探偵小説」という言葉があった。本巻に収録された底本は、『長編三人全集9 見果てぬ夢 銀座事件』(新潮社、昭和五年)であるが、この初出から少しの省略、改変がある。挿絵は、竹中英太郎。画家の英太郎と於菟吉とのコンビは、この頃、「嬲られる」(『週刊朝日』昭和四年六月一日号、末永昭二編『竹中英太郎(三)』皓星社、二〇一六年所収)という短編があった。
 三上於菟吉の長編探偵小説は三編あり、最初は「血闘」(『雄弁』大正十三年十一月号〜翌十四年九月号、『血闘』ヒラヤマ探偵文庫24、二〇二三年所収)、次にこの「銀座事件」、最後は、「幽霊賊」(『キング』昭和十年一月号〜十二月号)であった。「銀座事件」は、昭和恐慌の中で紡ぎ出された作品であった。
 連載された『主婦之友』は、大衆層の主婦に生活の知恵を授けるというコンセプトで編まれた雑誌である。大正六年に創刊され、時代の流れとともに歩んできた代表的な主婦向け雑誌だった。彼女らに読んでもらうためには、興味の対象を絞っていく必要があるだろう。
 於菟吉もそれを意識していたようで、物語最初の章題が「二食主義と麻雀」ということがそれをよく現している。昭和五年という不景気の中で、二食主義は昼食を節約するという意味もあるかもしれない。しかしそういう匂いを大げさに出さないで、「主張」としての二食主義を押し出すところが、主婦に日常生活のあり方を教示する展開になっていて面白い。
 実際、二食主義は大正七年当時の米騒動による米不足がきっかけになって表面に出てきた考え方であるが、それが昭和五年の不景気の中で再び小説に取り上げられるのが興味深いのである。同時代を生きている主婦に訴える力を持っていた。
 それに続けて、麻雀の話が出てきていた。この当時、麻雀がブームであり、サラリーマンや女性、主婦、誰でも手軽におこなえる娯楽としてあった。麻雀で遊ぶことが、家庭で問題になっていたかもしれない。つまり、第一回目の冒頭から、家庭に関連する時間の過ごし方を連想させるような内容になっていて、読者を惹きつけていたのである。そこから、竹中英太郎の挿絵に導かれて物語の深みに入っていく。探偵小説というより、時代に寄り添ったサラリーマン小説のような出だしであったのだ。
 主人公は、東京丸の内の丸ビルにある金須氏の経営する東京事業社に勤める今井廣一である。事務の仕事をしている。しかし、現在、そのようにして勤めているだけであり、過去は違った境遇にあったことが後に明かされる。ここでサラリーマンを主人公にしたのは、於菟吉が中間層の大衆を意識していたからかもしれない。
 廣一は社長に誘われて、大銀座ホテルで社長の美人妻しげ子と麻雀をすることになった。しかし、彼には約束があった。彼と同じ貸家に下宿している少女雛子と、シネマを見に行くはずだった。彼女は足を患っていた。だが、彼女に事情を話して、廣一はホテルに出かけていった。
 ホテルでの紳士淑女との出会い。きらびやかな世界であったが、社長夫人の部屋の窓から怪しい男が忍び込んだ。それをめぐって、翌日、カフェ・ミランでしげ子との逢瀬があり、そして凶事が起こる。ようやく物語は探偵小説らしく動いていくことになった。
 このようにして、「銀座事件」は進んでいくのだが、主人公廣一の姿は、三上於菟吉の作品によく見られる美青年である。野心家であり、社長に気に入られ、上流世界に向けて出世していくのは、いつもの於菟吉の小説パターンだ。下宿にいる雛子の姿とのコントラストも描かれ、無産階級とブルジョアの対比も取り入れられていた。つまり、不景気の現実らしさがきちんと描かれていたのだ。そういうところも於菟吉の巧さであるが、「銀座事件」の醍醐味は、紆余曲折の末、結局ラストにおける皆の幸せにあるのだろう。探偵小説の風味で、主人公たち男女の幸福を成就させる人情物語といってもいいかもしれない。

■艶容万年若衆


艶容万年若衆(あですがたまんねんわかしゅ)」は、『講談倶楽部』昭和三年十二月号(一八巻一四号)に掲載された。目次には、「凄艶綺談」とあった。挿絵は、小田富弥。前述したように、この初稿と思われる作品が存在し、水上藻花名義「元禄怪異 呉羽之介の絵姿」であり、『講談雑誌』大正八年夏季特別増刊「長編揃一大事」号(五巻七号)に掲載されている。オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」を江戸の元禄時代に移した翻案物の作品である。
 作品冒頭部分を比較してみると、「呉羽之介の絵姿」の方は、「泰平の代は枝を吹く風の音もなく明け暮れて徳川の深い流れに根を涵した江戸文明の巨木には、〜」であり、「艶容万年若衆」は「揺るぎ無い御代は枝に吹く風の音も静かに明け暮れて、徳川の深い流れに根をひたした江戸文明の巨木には、〜」となっている。
 このことから推測できるのは、最初の言葉遣いを変えることにより、改稿したことを明らかにすることであろう。初稿から、ほぼ九年経っている作品であり、於菟吉自身も納得のいかない箇所を直したい気持ちがあったと思われる。あるいは、読んだことのある読者に向けての礼儀だったのもしれない。このような変更は随所にあるが、主人公の名前、物語内容や構成にあまり変化はない。
 それにしても、なぜ、この時期この作品を『講談倶楽部』に載せたのであろうか。一つ考えられるのは、於菟吉が『講談倶楽部』前号まで連載していた「毒草」という作品が行き詰まり、まとめられなくなったからということだ。
「毒草」は、於菟吉が『講談倶楽部』昭和三年一月号から十一月号まで連載していた現代物の作品である。月号によっては、いつもより分量(ページ数)が少なくなるときがあり、その際、連載末尾には書けなくなった於菟吉の言い訳が付されていた。そして、ついに十二月号において完結できなくなり、その代替えとして、以前発表した「呉羽之介の絵姿」を「艶容万年若衆」と改稿、改題して掲載したのではないだろうか。
「毒草」は、十二月号で完結する予定だったのであるが、できなかったので、仕方なくやった代替え掲載だったのだ。十二月号の目次には「毒草」の表題はあるが、該当ページを見ると、田村松魚「光圀卿」が掲載されていた。「光圀卿」の表題は目次にはない。
 於菟吉の昭和三年は、判明しているだけで、この「毒草」の他に、前年から「彼女の太陽」を『女性』に、一月から「淀君」を『婦女界』に、「情熱時代」を『キング』に、「火刑」を『主婦之友』に、「激流」を『東京日日新聞』に、五月から「落花剣光録」を『富士』に連載していた。新聞を含め、月刊雑誌連載を七本もしていたのだ。驚くべき仕事量である。これら以外にも短編をいろいろな雑誌に載せている。また春には、長谷川時雨とその妹春子らと一ヶ月ほど中国北京に遊んでもいた。忙しさが「毒草」の完結を迷わせたのかもしれない。
「毒草」のラストは不明であるが、その代わりとして「艶容万年若衆」が三上於菟吉の名前で、再び読者の前に現れた。しかし、なぜ、この作品が選ばれたかという謎が残ってしまった。それはたぶん、渡辺温の「絵姿」が『新青年』昭和三年十一月号(〜十二月号)に掲載されたのを、於菟吉が見たからかもしれない。この作品は、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」のダイジェスト翻訳といえるものである。
 於菟吉自身がそのようなことをいっているわけではないのだが、薄弱な根拠として、掲載時期が「艶容万年若衆」の一ヶ月前だということ、また於菟吉自身が「皮肉に言へば新青年は日本のロマンス書きの一種の粉本帳だ。同誌に載つた翻訳小説は、現に時事新報の夕刊もの藤野汀洲こと前田某氏に、あの長編を提供してゐる」(「当世文事鑑」/『随筆わが漂泊』サイレン社、昭和十年所収)と述べていたからである。
「毒草」に行き詰まって完結の手懸かりを探そうと、於菟吉はたまたま手許にあった『新青年』を繰っていた。そこには渡辺温の「絵姿」があった。これは俺も昔やったことがあるぞ、と思いつき、急遽『講談倶楽部』の編集者(あるいは長谷川時雨)に連絡をして、『講談雑誌』の「呉羽之介の絵姿」掲載号を探してもらい、朱を入れたのだろう。それを「毒草」に代えて、どうにか体裁を保つことができた。編集者の苦労が偲ばれる。もちろん、これは想像であるが……。
 まさに『新青年』に載った渡辺温の小説「絵姿」——「ドリアン・グレイの肖像」が、粉本(手本)の役割を果たしたのである。そこからその製作手法が、三上於菟吉作品のオリジナリティーを支えるものであったことが読み取れる。「艶容万年若衆」は「元禄怪異 呉羽之介の絵姿」を改稿した作品である。もしかしたら長谷川時雨との大切な思い出が詰まった作品としてあったのかもしれない。三上於菟吉の時代物の裏側に秘められた愛情も、ぜひ味わっていただきたい。



【解説】湯浅篤志

https://twitter.com/lysling

大正文学研究者・『新青年』研究会会員。著書に『夢見る趣味の大正時代』(論創社)、『現代文 基礎問題集』(ベネッセコーポレーション)、「映画化できない、のは何故か? 三上於菟吉の探偵小説」(『映画論叢 65』掲載)。編著に『聞書抄』(博文館新社)、『森下雨村探偵小説選』Ⅰ〜Ⅲ(論創社)、解説に『女難懺悔 須藤鐘一』(本の友社)など。近年は大正時代に豊かに花開いた国内探偵小説や、国内翻訳家作品の復刊もヒラヤマ探偵文庫で手掛けている。

書籍DATA

【湯村の杜 竹中英太郎記念館 開館20周年記念】
『銀座事件』
三上於菟吉・作/竹中英太郎・画(MM PROJECT文庫)
□発行:2024年4月10日(予)
□仕様:文庫(A6)版/本文モノクロ364ページ(口絵2P含)
□価格:2400円
□併録『艶姿万年若衆』(本文のみ)
□解説:湯浅篤志(大正文学研究者・『新青年』研究会会員)

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