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卒業式前夜

 明日で大学を卒業ということになるらしい。大学を卒業するということは、学生が終わるということである(某構文)。そして気付けば「社会人」というレッテルを付与されるのだ(誰に?)。正直言って何も実感が湧いてこない。なんならこれを書く寸前まで、無謀にも入社2週間後に突っ込んだ資格試験をどう越えるか悩んでいた始末である。理由を考えたのだが、ここ数年は大学生という肩書きすら忘れかけていたせいだろう。コロナ関連が主要な要因だ。明日大学の門をくぐって久しぶりに自分の身分を自覚し、そして同時にかなぐり捨てることになるのだ。学位記を手にして記念写真を撮ったあたりで、嫌が応でも現実を突きつけられるに違いない。なんてことだ。みっともなく3/31までは学生だなどと、いやいっそのこと、まだ正確な場所を知らないオフィスで入社式の開始までは学生だと喚いたところで、余命が高々1週間伸びるだけのことだ。無駄なあがきである。
 もっとも、学生と社会人の区切りに意味を付与して考えすぎても、それは社会的な渦に巻き込まれているのかもしれない。社会学者の方などがきっと主張しているように、「学生が終わる=社会に出る」という構図自体奇妙なものだ。学生だってこの社会の一員なのだから、堂々と「社会の一員です」という顔をして良いはずだ。お金を稼いで自立することが社会人の必要条件なんて、そんなバカな話はない。それに時代はリカレント教育である。文科省の旗振りに便乗して、「学生と社会人の垣根なんてどんどん低くなって…」と誰かにしたり顔で言ってやりたい。
 とは言っても、人生の節目の一つとはなる今、どうせなら振り返りの一つでもやっておきたい、と考えるのはおかしなことではあるまい。それに(日本の正社員という身分として)働くことは初めてなのだから、考えるほどにじわじわと思いは滲み出てくる。自分のようにただでさえ気持ちの切り替えが苦手で、そのくせちまちま内省しがちな人間にとっては、これを機会に言語化の一つでも試みておかないと(できるとは言ってない)ずるずるともやもやし続けるに違いない。働き始めてからででもいい気もするが、気付けば時間が経って「社会人10ヶ月の感想は…」などという中途半端な書き出しで始めることとなり、思いとどまる未来が今から見えている。というわけで、始めさせてください。深夜テンションになって書いたものほど恥ずかしいものはないので、そう遅くない時間に切り上げる。つまりはたくさんは書かない。

 5年間学生生活と名のつくものを謳歌してきたわけだが、幸せなものであったとは自信を持っていえる。苦しいことはあったしあるし、「自分は何てダメダメなんだろう…」とどうしようもなくつらく”感じて”しまうことはあるが(今もだ)、一つ一つの思い出をなぞってみれば、得たものの方が失ったものよりも遥かに大きい。それは事実である(話は沿れるが、このようにつらいという感情をメタ認知によって克服する、という試みは健全なものなのだろうか)。知的にレベルアップしたとはもちろん思うし(本気で学問した方にボディブローを受けそうだ)、課外活動にも参加する機会に恵まれ、留学すらコロナ前にさせてもらえた。そして何より、心から大切な友人・仲間ができたことは一生の財産だ。何も卒業式前の感傷に流されて述べているわけではないし具体的に書くのも気恥ずかしいが、とにかく間違いない。人との繋がりなしに生きることも可能な社会で上のように思える存在があること、それがどんなに尊いことか。そのようによく考えてしまう自分は脳内お花畑なのだろうか。個人的に好きなアーティストの歌詞を借りれば、「わたしが存在する意味はわからないのに あなたが存在する意味はこんなに胸に溢れている」のである(ヒグチアイ・「劇場」より)。
 結局感傷的になったような気もする。なんにせよ、上段のように多くの具体的な学び・財産と形容できるものができた。高校を卒業時にこの未来を伝えても、きっと冗談とばかりに一笑に付されるに違いない。そのくらい、以前は想像もしていなかった学生の終着点を迎えられたのである。これに関しては、無理にでも喜ばねばなるまい。
 

 続いて、これらを「自分の中の変化」という視点で捉え直してみるとどう表現できるかふと考えてみた。何とかしてうまいこと言えないかとしばらくペン、いやキーボードを止めて思い耽ってみた。思いつかない。いやそれらしいものは思いつくのだが、「これじゃない」感がすごい。卒業旅行の北海道で買ったエゾシカジャーキーを眺めていたら、急に啓示がやってきた。「強くもなったし、弱くもなった」。これだ。もちろんこの10文字あまりで全てを包含しているわけではないが、最も大切なものを切り取っているように思う。
 入学時と比べて、確かにいくつかの「強さ」と呼べるものは手に入れたと思う(同時に相対的な実力の低さに辟易するわけだが)。学問的な成長や、仕事でも使えるかもしれないいくつかのスキルもここに含まれるわけだ。いうまでもなく、大学で得たところを土台にしてさらに自分のありたい方向で力を伸ばしていくよう努力せねばならない。一方で、挑戦的な表現ではあるが、「弱くなった」とも思うようになった。ここ数年、そして最近、自分のどうしようもない性向や考え方感じ方、うまく行かないことに思い悩むことが増えたと思う。「思い悩んでいても時の流れは止まってくれない」と煉獄さんにお説教されそうだが、これはこれで大切な時間だとも思うのだ。自分のマイナスの部分・辛いことに目を向けずに強気で振る舞う方法もありうるわけだが(かつての自分に近い)、それは問題の先送りだな、と今になっては確信している。「弱気な自分」でいるのを半分無意識に避けていたのだと思う。ありきたりすぎる表現だが、「自分に正直に」辛い時は辛いと思えるようになったこと。深く思い悩むこと。そうして初めて、乗り越えたと言えるような気がする。あくまで気がする、だが。もちろん辛いし行き過ぎも問題だが、これらを素直にできるようになったのは自分に必要な「弱さ」だなと思うようになった。だから「強くもなったし弱くもなった」なのである。
 加えて前節にも関連づけると、自分ではない他人に原動力の一部を置くようになった。これも「弱くなった」の一要素と位置づけられるように思う。あの人がいるから自分も頑張れる、あの人が嬉しい/しんどいと思っているから自分もそう感じる、などといった行動(感じ方?)がそれにあたる。軸足を他者においているという意味で弱さ・一種の依存と捉えられる向きもあるし、それに起因する辛さももちろんあるが、少なくとも自分にとっては前向きな変化だと捉えている。

 何一つ具体的な思い出は書いてないが、というよりあまり書くつもりはなかったのだが、そろそろ終わりにしようと思う。大した分量ではないし、国語の要約だったら100字要約が可能なレベルだろう。それでも、大学の振り返り・変化の最重要ポイントをくくり出せたとは思っている。序盤よりかなり真面目なテイスト中心で書いてしまったが、今の自分の文章力ではこれが限界である。
 本当は入社に向けた何がしかもかければと思ったが、きっとそれをやると日を跨いで一段落目を訂正する羽目になるだろう。要点に関する詳細な記述はもうちょっと書きたい気持ちがある。何かが舞い降りたら書きたいし、もしかしたらこっそり編集機能を使ってここに書き足しているかもしれない。
 それにしても、時計を見ると書き始めてから90min程度しか経っていないことに驚いた(その分、お世辞にも練られた構成とは言えないが)。大学のレポートでもこれぐらいの集中力を持っていれば、GPAを0.5ぐらいは押し上げられたに違いない、嗚呼。

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