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社会人前夜

 「卒業式前夜」の続きとして書いてみる。

 卒業式も終わり、明日からは名実ともに社会人である。やはり前日ともなると感慨の一つでも湧いてくるものかと思っていたが、頭に浮かぶのは漫画「のび太の結婚前夜」の1シーンだ。作中のしずかちゃんよろしく「パパ!あたし、就職するのやめる!」などというくだらないパロディばかりが頭をよぎる。普段ならこういう時には感傷的な気分になる人間なのだが、どうも今は心がうまく機能してないようだ。

 こうやって文章を思い浮かべながら、改めて自らの幸運さに思いを馳せる。そもそも「社会人がついにはじまって...」などとのんびりのたまへること自体、(生計を立てることについては)余裕がある証拠である。自らの努力・過去を卑下するつもりはないが、そこには社会的要因があったことを忘れてはならない(もちろん、行きすぎた構築主義に走るのも難しい話だと思うが...)。経済的援助をくれた親族はもちろん、良い刺激を常に与えてくれた周りの仲間への感謝を常に抱いてゆきたい。これは口にするのは簡単だが、言う以上に困難なことだろう。関連して話は逸れるが、どうしても自分を甘やかしたり、正当化する感情が頭をよぎるのは、誰にでもある話だと思う(進撃を参照!)。そこで楽な方向へ流されず、自らの矛盾をできるだけ訂正していく試みが、少なくとも自分にはこれから求められていくと感じている。

 何はともあれ、学生から社会人へと。卒業式前夜の記事でも触れたように、あまりにそこに意味づけをするのも考えものなのだろう。ただこちとらろくに自立できていない学生、いきなり労働市場の渦に投げ込まれ、なんの変化も起きない方がおかしい。社会人生活を始めてものの数週間も経つ頃には、今と考えが「気づかないうちに(⇦重要)」180度転回している可能性だってありうるわけだ。そんな風になってもいいよう(?)に、今のうちに社会人に向けて思っていることをしたためておこうと思う。ひょっとすれば、数ヶ月後にはこのnoteを見返して「若いなあ...(遠い目)」などと思っているかもしれないが、それも悪くはないだろう。言ってみればそう、小説作品などでお馴染みの「あなたがこれを読んでいる頃には私はもう、、、」というくだりのそれである。

1. 自分を気遣う

 社会人になると、平日は8時間働くことになるらしい。これに残業も加わるわけだ。キツすぎる。お気持ちを表明すると、意味がわからない。何よりも不可思議なのは、同じ境遇を通ってきた友人たちがすでにそれらを乗り越えている点だ。ともに「働ける気がしねえ〜〜」などとほざいていた友人(それも、筆者よりはるかに怠け気質だったはずだ)でさえ、一足早く就職した今では残業100時間などをこなしているのである。この例があるから「まあ、なんとかなるものなのか」とは思えている一方、そのメカニズムは結局今まで謎のまま、狐につまされた気分である。ひょっとしたら「社会人教」なんてものがあるのだろうか。なんて馬鹿な考えすら頭をチラつく。
 とはいいつつも、やはり(特に)序盤は新環境に慣れるのに必死でストレスもかかるはずだ。それに、実際に環境への適応に難儀している例も(人伝てだが)聞いたことがある。さらに追い打ちをかけるように、諸般の事情で筆者の今のメンタルはボロボロの状態である。この文章も、水中で作業しているような感覚で(つまり、苦しさを忘れるため無理矢理集中して)キーボードを走らせている。正直、この状態で新しいもろもろをこなすのには不安しかない。
 そんなわけで、今まで甘えた生活を送ってきた身ながら、しっぽり自分を気遣う努力はしようと思う。睡眠食事は言うまでもなく、友人と時間を過ごしたり、ゆっくり本を読むなど。高いレベルで自己研鑽が求められる(多分)職業だからこそ、休みとの境界線が引きにくいと懸念している。周りの人にも、自分がおかしくなったらアラートを出してもらおうかしら。

2. 余裕を持った人に

 前段と重なる部分もありつつ、あえてタイトル付きで書いてみた。入社後には「MECEでない」などと即座に喝破されそうである。
 大変に幸せなことに、「仕事の内容そのもの」に関しては不安より期待の方が多い。ただそれが裏目に出て、仕事のことのみしか頭の中にない、という状態は避けなければならないと思う。きっと自分の心の余裕がなくなり、結果として前段の「自分を気遣う」も無碍にしてしまうことだろう。そしてメタ的に自分を顧みても、せかせかとしているさまはあまり好きではない。
 とはいえ、自分はマルチに頭と体を動かすのが決して得意ではない。半分強制的にでも「仕事のことを考えない時間」を作っていこうと思う。きっとその積み重ねが、自らの中での「余裕感」醸成につながるはずだ。結局は「仕事とそれ以外の棲み分け」と一言で済む話なのだが、とりわけ自分は意識的に取り組まないといけないテーマなのである。
 ちなみに、ここでいう「余裕を持つ」とは、自らの心性、心のありようのみを示したいわけではない。他人から見たときの外側の印象も大切である、というか相互に連関していると思う。立ち居振る舞い、話し方(すでに話すのが早いので、マイナススタートである)、それら以外の挙動など。そういった外側の行動から余裕を持たせることで、自分の内側にも好影響を与えられるのではないか。よく言われることながら、今まであまり実践してこれなかったと省みている。なんなら今日も「話し方がコンサルっぽい/全部頭を経由して話している印象がある」など言われ思うところがあった(じっくりふかぼって考えたい)ので、ちょうどいい機会である。

3. 働き方

 やや蛇足かもしれないが、働き方について。かなりの割合がオンラインワークとなるらしい。詳細は認知していないが、どこか遠い地で長期間働くことも、不可能ではないそうだ。ワーケーションってやつもできるんだろうか。流石に「新時代の働き方!」などとイキり倒す気持ちは持ち合わせていないが、それを含めて柔軟さを持った職場であるなら素直に嬉しい。もちろん、オンライン中心の弊害もきっとあるわけだが。
 そこに関連して、これからの仕事を通じて「パソコンと手と頭さえあればなんとかやっていけるようになる」というのが現在の思いの一つだ。「どこにいても自分の強みを生かして働ける」とも言い換えられる。(当然ながら)これから働く会社を辞めることが視野にある、という話ではなく、こうしたあり方を意識することでレベルアップの良い指標となるように思えたからだ。それに、(いい意味でも、悪い意味でも)人生何があるかわからない。例えばうっかりインドネシアへの移住を熱望したとしても、セーフティネットとして機能することだろう。完全な冗談とも言い切れないのが怖いところである。
 やけに現実的かつ情緒さに欠けるテーマとなったが、こういったことを考える機会は今後も増えていくのだろう。抵抗感がないと言えば嘘になるが、そういった自分の感覚とのすり合わせは今後も続けていく。
 

 (決して構造的とは言えないながらも)3点に分けて記述したが、自分の思いの丈を一気に綴れたと思う。今ざっと見返したが、全体を通して自分の言葉で書けたと自認している。いまだに感慨は湧いてこないけれど、不安と期待と、周りからもらったものへの感謝だけは忘れずに。
 よし、がんばろう。


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