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ー心ない人に煩わされている、全てのクリスチャンの方々へー

最近、「教会や牧師に躓いて、離れてゆく人は少なくない」という話を耳にしました。
また、日本人の場合、教会に来始めて信仰を持ち、「やっぱり行くのやめた」となるまでの期間、つまり「クリスチャン寿命」は、平均3年と言われているようです。

何がそんなに耐えられなかったのでしょうか。
おそらく、仲間からの仕打ちや軋轢(あつれき)でしょう。 いつの時代も同じです。

《あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。》2コリント11:19-21

パウロは皮肉気味に、そのリアクションを「賢い」故だとしています。
特に日本人にはこの傾向が強いようです。

また最近、SNSのやり取りなどを通して、それらを乗り越えて、頑張っている方々の中にも、内心、「教会」に関連した多くの苦悶や苛立ちを経験している人は殊の外多いという実情を実感しました。
それで、今回それを踏まえて、一般にそれらに対処するための方策としての「励まし」によく見られる「祈り」や「「赦し」とは別の(逆の?)角度で捉えたこの記事を準備しました。

まずはパウロのこの言葉に耳を傾けましょう。

《これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。》ガラテア6:17
原語で「イエスの印」と書かれている部分を殆どの日本語訳は「イエスの焼き印」と訳しています。

英訳:From now on let no one cause trouble for me, for I bear on my body the 【brand-marks】 of Jesus.(New American Standard Bible)
上記の日本語訳:「これからは、だれも私に迷惑をかけないように。私は自分の体にイエスのブランドマークを付けているからです。」

ブランドマークとは:
もともと、「ブランド」とはその所有者を明らかにするために、家畜のお尻などに押した焼き印の事です。 「所属」を明らかにするためのマークです。
(パウロが「焼き印」と表現しているのは、クリスチャンとして迫害された時に受けた傷跡だったかも知れません)
そして革製の商品にも「メーカーの銘柄や商標」として押され「品質保証」の意味あいも生まれました。
「有名ブランド」と検索すると、「ディオール、ルイヴィトン、シャネル・・」など聞き覚えのある名前がズラーっと出てきます。

ところで、あなたはいかがですか。あなたもイエスの奴隷としての焼き印(ブランド)を受けておられますか。
現代の日本では信仰の故にムチ打たれることなどおおよそないでしょうけど,あなたがクリスチャンであろうとしたゆえに経験してきた何らかの辛い経験があるかも知れません。
そうしたことを堪え忍んできたのなら,紛れもなくあなたにもイエスの奴隷としてのその焼き印があると言えるのではないでしょうか。
あるいは、そうでなくとも、神への献身の表明として、自分が何に所属する、或いは誰の「もの」であるかを明らかにされたわけですから、あなたには「クリスチャン」としてのイエスの「しるし」、ブランドマークを受けていると言えます。

ではあなたは,ご自身のその、言わば焼き印 [brand-marks] を,どうみなしておられますか。

さて,もう一度 ガラテア6:17の前半に注目しますと「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません」と述べています。  
パウロはなぜそう述べたのしょうか。
わたしを、重要人物として、もっと丁重に扱いなさい!と言っていたのではありません。
しかし,世にあってキリストと同じ試練を担っている者の1人だという認識を持って自分を扱って欲しいと願ったのでしょう。
それゆえ,すべての人はイエスブランドのパウロを,そのブランド名ゆえに丁寧に扱うべきでした。
クリスチャンの所有者、ブランドメーカーはイエス・キリストですから、もしクリスチャンを(兄弟のうち最も小さな者でさえ)不必要に煩わせるなら,それはその所有者を侮り、キリストの贖いの価値,その代価の高さを見くびることになるということです。

同様に,あなたご自身も、自分には,ブランドの焼き印があり,キリストの血という、はるかに高い代価を神が支払ってあなたを買い取って下さったゆえに,正にそこにそうしてクリスチャンとしているのだということを正しく認識しておられるでしょうか?
 またあなたの仲間や、より上位の権威のある立場の人々の、あなたに対する接し方や扱い方いかんによって,それらの人が本当にキリストに敬意を払っている本物のクリスチャンか、偽クリスチャンかを見分けるしるしともなります。
(実際にパウロを煩わしていたのは、「しかるべき立場にある」人々でした。)

それで,誰かがあなたを,安っぽいの品物のように、敬意の欠いた仕方で扱うとしたら、イエスブランドの名の故にそれを許してはなりません。
「これからは誰もわたしを煩わせてはなりません」というのはパウロだけの特権ではありません。
クリスチャン全てに、当然あなたにも、このように言う正当な理由があるのです。

ところで、突然話は変わりますが、エジプトのファラオはまさにそうした認識に欠けていました。
ヨセフの時代のファラオは神(ヤハウェ)の名のゆえにイスラエルを丁重に扱いました。
しかしモーセの時代のファラオの態度はこういうものでした。

《ファラオは、「主(ヤハウェ)とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。》(出エジプト5:2 )

それであなたを軽々しく,あるいは,手厳しく扱う者がだれであったとしても,その人はファラオと同じ人種で、「わたしはキリストなど知らない。どうしてあなたを丁寧に扱わなければならないのか」と言っていることになります。

クリスチャンとして自分が不完全で罪深い事を認識し、道理をわきまえた謙遜なものである事を自認することと、自分自身はキリストの貴い値を持って神が買い取られた故に神の目に貴重な存在であるというその価値を正しく認識する事に明確な区別が付いているべきではないでしょうか。

イエス・キリストは、(必ずしも目立った存在ではない)一人のクリスチャンをどのように扱ったかをすべて知っておられ、それをご自分に対する態度と同一と見做されるということを、覚えておく必要があるでしょう。

《王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』》マタイ25:40,45

確かにクリスチャンは「奴隷」に擬えられており、「右の頬を打たれたら左も」という感性を身につけているのは知恵の道ですし、クリスチャン同士の揉め事に関しては、《互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。》(コリント一 6:7) と諭されているのも確かなことですが、しかし、「尊厳」は断固守らねばならないということです。
(上記の諭しは、クリスチャン同士の争いを、教会内部で解決できて当然のことなのに、外部(一般社会の司法制度)に訴訟を起こすくらいなら・・というニュアンスが含まれています。状況によりそうした行いに何も問題はありません。

自分が神の像に造られていること,そのようにデザインされた者であることを忘れないで下さい。

《主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。》(詩編111:2,3)
  尊厳: Dignity  威厳,品位
  威光: 輝き,すばらしさ
これは、神ご自身の事ではなく、その「み業」についての描写です。「あなた」という存在はその「神のみわざ」の一部なのです。

神は、人に、この「尊厳と威光を身に着けなさい」と諭しておられます。
ヨブ記40章から引用してみましょう。

《さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。》
さて、どうすれば、自分が「誉れや気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけ」ていることを示せるでしょうか。

神ご自身からの、そのための提言は驚くべきものです。一瞬耳を疑ってしまうかも知れません。

《あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。
すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。
彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。》

あなたに対して偉そうにする人を「抑え込み、激しい怒りを吐き散らし、その場で踏みにじるように」ということです。
クリスチャンなのに、そんな事しちゃっていいんでしょうか。
そんなことをしたら、どんなふうにみなされるでしょうか。

保証します。神から褒められます。

《そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。》(ヨブ40:10-14)

神は、ヨブの親しい友人であり慰め手であった人々を「悪者ども」と呼んでおられます。
まあしかし、クリスチャンは、「激しく怒ったり」しないように諭されているのは確かです。
《愛する兄弟たち。・・だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。》(ヤコブ 1:19‐20)

でもここで注目しなければならないのは、控えるべきなのは「人の怒り」です。
自分で考えた判断のものさし、自分勝手な基準から出る「怒り」です。
人のうちに沸き起こる苛立ち、怒り、憎悪は、何であれ誤った、留めるべきものとは限らないということです。

私は昔から、自分の思い、考え、ひらめき、欲求、喜怒哀楽などの感情を「判断するためのものさし」を意識しています。
人から出るものの全ては、基本的に次の2つに分類されます。
受け継いだ「罪」の故か 「創造」に起因するのか のどちらかだと言うことです。
つまり、人間が罪を負っているために生じているのか、それとも神によってそのように創造されているからなのか。
今の自分のこの感覚はそのどちらかを分析してみるということです。
もし後者であるにも関わらず、それをとどめてしまうなら、それこそ「神の義の実現」を阻むものとなってしまうというということです。

自制を働かせ、怒ることに遅くあるのは確かに知恵の道ですが、「決して憤ってはならない」わけではなりません。むしろ「憤らなければならない」「ここでわたしが憤らなければ神に申し訳が立たない」時もあるのです。

ですからバランスを取ることは必要でしょう。
《怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。》エフェソス4:26
「「怒って」はいけないと言っているのではありません。「怒る」べき正当な理由もありますが、無制御だと「罪を犯す」可能性が生まれやすということです。その日のうちに解決を図り、平静を取り戻すのはよいことです。

あなたは、義憤をあらわにして誰かに褒められたことがありますか?
聖書を使って、オカドチガイの励ましや慰めを与えて、人を煩わすような人には、あからさまに憤りを表すべきで、その場で、そうした人をなじるのが相応しいという時も場合によってはあるということです。

ですから,最も根本的な霊的な戦いとは,人を貶めようとする、そうしたサタン的な影響力にならされてしまうことがないように,自分と人の尊厳と光輝とを守って行くことに他ならないでしょう。

今日でもサタンは同じように,「わたしたちは神の不興を買っており,わたしたちの努力は何であれ不十分だというような感覚を植え付けようとしてきました。そしてほとんどの場合、そうした働きかけは、外部の人ではなく、仲間のクリスチャンや「しかるべき立場にある人々」からもたらされてきました。
そうしたサタンの働きは巧妙で、単なる外からのささやきではなく、当人の考え方のパターンに影響するような仕方で人の心に蒔かれています。

例えば、そのような人は,贖いの備えなどの話から,どれほど自分が神の目に価値があるかをを示すそうした証拠を学んでもなお,そのような心は執ように、自分自身にこうささやくかもしれません。
『しかし,立派な業や,その特質の点でわたしよりも模範的な人がほかに幾らでもいるではないか。
多くの特権をとらえ、華々しく活躍している彼らの奉仕活動とわたしを比べたら,神はきっとがっかりされるに違いない。』
しかし,それは,決して神の見方ではないのは言うまでもありません。
神の願い、そして懇願は、どうぞ、より一層、「優越性と気高さで身を美しく装い。尊厳と光輝を身に着け」て下さい! です。

さて最後に,いかにもサタン的な1つの例: 
《その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。》(マルコ 9:20-22)

人ををおもちゃのようにもてあそび、その体を地に投げつけて汚し,ほくそ笑む。これがサタンです。
サタンはこれまで,文字通りの災いだけでなく、これよりはるかに大規模に,人々を霊的,精神的な仕方でけいれんを起こさせ,地面に投げつけてきました。
つまり,人間性を、尊厳を、自尊心を踏みにじり,人の純粋さや真剣な願いを、裏であざ笑ってきました。

神はねたむ神として,今,最高度にねたんでおられるに違いありません。
《あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神》出エジプト20:5
神の憤りは目下、最大限に達していることでしょう。
「大バビロン」の「罪は積み重なって天にまで届」いている一番の理由は「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている」ことだということです。
であるなら、クリスチャンを手厳しく扱う者たちに対する大いなる怒りも同様でしょう。

あなたはそうした神の激しい憤りを感じ取っておられますか?誰に対してですか。
あなたを軽々しく扱う、個人や組織に対してです。
今あなたのすべきことは何でしょうか。もう一度繰り返します。

《「さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。
あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。
すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。
彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。
そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。」》


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