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受験を“乗り越えるべき試練”のように描写する世の中の風潮について思うこと

 どうもこんにちは,本日もひとりごとです。今回は少々,日本における受験観に一歩踏み込んだ話をしようと思います。なお,私が今回の記事で触れる「受験」とは,主として大学受験を指し,中学受験や高校受験と比較して保護者よりも受験者本人に重心が置かれたものであることを念頭においてお読みいただければ幸いです。

カロメやinゼリーのCMにみる日本の受験観

 秋ももうすぐ終わり,冬が始まる頃になると,テレビでもネットでも受験を意識したCMが流れ始めます。例えばカロリーメイトとか,inゼリーのやつですね。大きな受験会場で試験監督の「はじめ!」の合図とともに一斉に問題を解き始める受験生たちの描写とか,夜遅くまで机に向かって必死に勉強を頑張る高校生の姿とか,おそらく誰もが目にしたことがあるものだと思います。キットカットの受験応援CMも印象的で,受験応援に全振りし始めたのは2003年くらいからのようですが,やはり誰もが知っているはずです。

 ここで一つ整理しておきましょう。上記の受験に関するCMで共通する点として,受験はつらく緊張感を伴うものとか必死に頑張って乗り越えるべきものとして描かれているのです。そう,受験はつらいものであるからこそ,我が社は頑張る受験生を応援しますよ,という文脈なのです。うん,頑張っている人を応援するのはきわめて自然なことで,そこに関しては違和感なく受け入れることができます。

 しかし,私はどうも何かに引っかかる気がしていました。そこで自分の受験を振り返ってみると,どうもそんなにつらいものではなかった記憶があります。そうか,そもそもつらいとか必死みたいな,痛みを伴う前提に違和感があったのだと気づきました。もちろん,受験勉強はいつだって楽しかったわけではなく,なかなか読めなかった英語や古文漢文を勉強するのは全然気が進まずつまらなかったので,そういう意味でつらかったのは事実です。

 でも,そのつらさよりもはるかに,わからなかったことがわかるようになって視野が広がっていく楽しさ嬉しさの方が勝っていた気がします。だから総合評価として,つらいとか必死に乗り越えるみたいな受験観に違和感があったのです。「え,この受験CMってステレオタイプすぎない?みんな違和感なく受け入れてるの?」そんな気持ちで見ているのです。(まあ私自身は勉強が嫌いではないから,今このように受験業界で仕事をしているわけで,その点においては当たり前ですね)

 さて,私が違和感を抱いてしまった,「受験=乗り越えるべき試練」の図式ですが,よくよく業界を見渡してみると,確かに講師も生徒も保護者も,そんな雰囲気を醸している気がします。例えば以下のような言説が流布しています。

  • 「受験は人生の大一番」

  • 「受験本番でベストパフォーマンスが出せるように,日頃から生活習慣を整えてね」

…受験の緊張感を過剰に演出しているタイプのやつで,まるでアスリートがオリンピックを迎えるようなお膳立てがされるケースも見かけます。そんなに言われると,自分が偉くなったかのように錯覚してしまいそうですが,決して偉くなったわけではありません。

  • 「受かりたかったら,一日〇〇時間勉強しなさい」

  • 「ゲームやスマホは禁止。勉強に集中できないでしょ」

  • 「合格できたら2月3月はいくらでも遊べるし,大学入ったらやりたいこといくらでもできるんだから,今はつらくても勉強を頑張ろう!!」

…結構日本人が好きなやつですよね,楽しみの先延ばしというか,ニンジンぶら下げておいてつらいものを工夫もなくつらいままやらせるタイプのやつ。

  • 「今頑張れない人が一体いつ頑張れるっていうんだ?」

  • 「受験の苦難を乗り越えたものだけが,ちゃんとした大人になれるんだぞ」

…ブラック企業の経営者が言ってそうなセリフですね。あとこういうことを言う大人はどうせ「出産の痛みを乗り越えたものだけが本当の母親になれるんだ」とか言ってるかその寸前に違いない。

 おっと,話題が逸れてアンチ無痛分娩の方々への巻き込み事故を起こしてしまいました。そういうテーマは別稿に譲るとして,今回のテーマに戻ると,確かに上述のようなセリフを誰もが聞いたことがあるのではないでしょうか。かく言う私自身も,自分の受験はそんなにつらくなかったとか言っておきながら,学生時代に働いていた学習塾では生徒に対して「今つらいかもしれないけど後で遊べるよ?楽しみが待ってると思って頑張ろうな。受験は今しかできないんだから」とか偉そうに曰うておりました(スミマセン!)。私ですら言っていた状況からもわかるように(?),やはり日本においては多くの人々が,受験はつらいものとして捉えているのだと思います。そして,そんな世の中だからこそ,それを反映してカロメやinゼリーのCMができているのでしょう。

 ここまで考えると,じゃあ受験っていつからつらいものだったのだろうか?という疑問が浮かびます。私が小学生の頃には,周りの大人が「〇〇さん家の△△くんは今年受験だから大変だね〜親も気が気じゃないね〜」みたいな会話をしていた記憶があるので,少なくとも20年は遡れる気がしますが…。

いつから受験は“つらいもの”だったのか

 この問いに対して,日本人に「受験はつらかったですか?」とアンケートを取って世代別に並べることができれば話は早いのですが,そういうわけにもいきません。ただ,一つの視点として,「受験戦争」という言葉が使われ始めたのが1960年代のようですから,その時期から大学受験というのはいわば“熾烈な争い”であり,“乗り越えるべき試練”だったと捉えることができます。

受験戦争
 入学するための選抜試験が激化した状況を指す。1960年代にマスコミによって使用され,一般に定着した。その要因としては,第1次ベビーブーム世代の進学時期に該当したこと,高等教育の大衆化が始まり高校および大学への進学率が急上昇したことなどが挙げられる。特定の大学への入学を目指す競争の激化により生徒の負担が増加し,また高校の授業が入試対策中心となるなど弊害が指摘されるようになった。このような過度な受験競争の緩和を目的として1979年(昭和54)に共通一次試験が導入されたが,結果的には偏差値に基づく国立大学の序列化を助長するなど,受験産業とともに,偏差値を重視した受験戦争を一層過熱させた。1990年代以降,大学入試センター試験の導入,推薦入学やAO入試など選抜機会の複線化(日本)の進行や,いわゆる「大学全入時代(日本)」の到来などにより大学への入学機会自体は大幅に拡大したものの,特定エリート大学への進学熱は依然として衰えていない。

受験戦争とは - コトバンク(平凡社『大学事典』)

 受験戦争の数値的な推移は,下記のブログにわかりやすくまとめられています。それまでよりも大学進学希望者が増えたから,少ない座席を奪い合うようにして受験は熾烈な争いの様相を呈したという,シンプルな話です。それにしても,不合格率が40%越えというのは,マジの受験戦争ですね。放っておけば半数近くの受験生が浪人するわけで,彼らの受け皿は…そりゃYゼミも儲かるわけです。(アラサー予備校講師には想像のつかないレベル)

 大学受験者数の増加を反映して,大学の数も増加の一途をたどり(需要に対して供給が追いついて)不合格率が次第に低下していったというわけです。

 そして今は(ご存知の通り)少子化の時代。大学受験者数は年々減少傾向にあり,実質的な数字上は大学募集定員と大学受験者数がほぼ一致する大学全入時代に突入しています。したがって,少なくとも数字上は,昭和〜平成初期ほどの熾烈な争いではなくなっているわけで,受験は相対的につらいものではなくなってきているはずです。

産経新聞 https://www.sankei.com/article/20210619-3ZMPIBBW45IEBA65AA6CF3QG2I/ より引用
2021年の記事なので,正確には「昨年の入試から」ということになる。
あとちょっと縦軸が恣意的すぎてひどい…

 もちろん,上位の大学に関しては,未だ人気が集中しており倍率も高い水準で推移しているので,「大学全入時代だから受験がつらいわけがない」とまで言い切るつもりはありません。実際,近年の都心部の私立大学の入学定員厳格化の影響を受けて,そういった大学は難易度が高止まりしており,10年前の「MARCHなら受かるでしょ」「日東駒専は保険」みたいな感覚が通用しないレベルになっています(この政策は現在見直されようとしているようですが…)。ゆえに,その文脈においては,現在の受験が10年前のそれよりもつらくなっているのは事実です。

 ただ,少なくとも浪人が前提にあった(浪人して大学進学してこそ一人前とか言われていた)ような昭和〜平成初期よりは,確実に大学受験はつらく険しい道のりではなくなっているのです。今は受験生のための多様で良質な教育コンテンツがいつでもどこでも誰にでもアクセスできるようなかたちで存在しており,誰もが効率的な学習をすることができるようになりました。今や,根性論で受験を乗り切る時代ではないのです。

 それなのに,世間では受験を“乗り越えるべき試練”のように描き,それを額面通りに受け取っている人々が少なくありません。この令和の時代に,多様性とか個性とか言っている時代に,みんながみんな受験をつらそうに乗り越える構図ってひどく馬鹿馬鹿しくありませんか? 本来,自分のやりたいことや学びたいことのために受験をするはずなのに,それを「つらい」とか言いながら必死に乗り越えるのって矛盾していませんか?

受験は“つらいもの”のままでいいのか?

  もちろん,人生で初めて受験を迎える生徒は,それまでに経験のないことですから,それぞれにつらさがあるのだと思います。「いやいや,受験なんか全然つらくないよ。受験終わった後の人生のほうがもっとつらいんだからさ」みたいな老害発言をするつもりは一切ありません。

 ただ私は,受験を必要以上につらく険しいもののように描いてしまうことには,一定の問題があるのではないかと思うのです。端的に言えば,受験を“乗り越えるべき試練”のように描写することで,次世代を担う若者たちの価値観を偏狭にしてしまうのではないかと思っています。具体的には,下記3点:

  1. 受験を必要以上に“乗り越えるべき試練”たるものとして乗り越えた場合,当人はブラック企業の体質に染まりやすくなるし,物事の本質に気づけない大人になって,自ら選択したコースを自ら否定しかねない。

  2. 受験できる“ありがたみ”に気づけない。世代を超えた教育格差の無意識性を助長する?

  3. 現代の教育環境や社会構造への問題意識が希薄化されたままになって,日本の教育(改革)が10年遅れる

 以下,それぞれについてすこし詳しく考えます。

1. ブラック企業に染まりやすく本質に気づけない大人になる

 そもそも受験とは,本来的に自分の学びたいことを学びたい大学で学ぶための手段として,大学側から課されるものです。大学側の施設や教員のキャパシティの関係で,定員を設けざるを得ず,やむなく優秀な者から採用するための選抜をしているだけで,必ずしも受験させたくて受験させているわけではありません

 当然,受験生は学ぶことを実現するために受験をするのです。その素質があると大学に示すために,学問分野に関連した教科を受験します。慶應大とかはその色彩が鮮明で,各学部・学科で入試科目がはっきり分かれていて,選択科目の幅が著しく少ないのです。(例えば理工学部は英数物化必須で生物の選択肢が設けられていないとか,文系でも商学部以外では地理が選択できないとか。SFCはさらに明確で英語(or数学)と小論文の2科目で受験させるなど)

 そう,それは裏を返せば,入学先の大学で学ぶ学問分野に関連した教科を受験するわけで,当然その教科をある程度楽しく学べるはずなのです。例えば,機械工学やりたい人は物理が好きで然るべきだし,物理が楽しいから物理で受験しているはずなのです。そしてその点においては,物理を楽しいと思うきっかけがなんであってもいいでしょう。なんで空って青く見えるんだろう?なんで地球は太陽の周りを回ってるんだろう?みたいな純粋な好奇心がスタートであってもいいし,高校で履修してたらクラスで一番をとってから楽しくなってきた,みたいなきっかけでもいいのです。いずれにせよ,楽しいから勉強するという時点で,動機の内在化が達成されたわけですから。

 でも,世の中には受験で必要だから(楽しくないけど)物理をやらなければならないというように考えている受験生も少なくありません。(余談ですが,そういう彼らは大抵「化学や生物は覚えることが多いから苦手」などと曰いつつ,消極的な動機で物理を選択するのです…)。あるいは,受験勉強を勝ち負けのゲームとして捉えて,ただただ勝つために勉強するというような受験生もいるでしょう。実際,一部の優秀な生徒たちはそのゲームに次々と勝っていき,“乗り越えるべき試練”を乗り越えていきます。

 しかし,それが続き,勉強の動機が内在化されぬままでいると,次第に,それができない生徒のことを蔑み,否定し始めるようになります。いわゆる“学歴厨”の出来上がりです。模試でA判定を取れるような生徒はそれができない他者を否定の対象とするし,E判定しか取れないような生徒は自分自身を否定するようになるだけ。

 そしてそういう生徒が仮に受験で合格したとしても,やらなければならないから勉強してきただけだし,勝つために勉強してきただけなので,大学では大学では実のあることを学べないでしょう。ただ,“乗り越えるべき試練”を乗り越えていった結果,何をやりたいかがわからぬまま大学4年間を過ごし,自らの価値を知らぬまま社会人になります。彼らはストレスを抱えながら試練を乗り越えることだけは得意なので,そういう環境で真価を発揮することになるでしょう。そう,ブラック企業に染まってゆくのです。

 受験勉強そのものを楽しんでいる人であれば,決してそんなことにはなりません。受験勉強は,本来的には学問の入り口に立つための準備であって,勝ち負けのゲームではないのです。楽しいから勉強する。そっちの方が何百倍も重要だと思うのです。

 もちろん,“乗り越えるべき試練”として受験を迎える受験生が悪と言っているわけではありません。実際,シビアな制限時間の中で自分の実力と拮抗するような(あるいは多くの大人が見ても難しいような)ハードな試験問題を解き切って大学合格を果たすというのは,まさに正真正銘の“試練を乗り越えた”経験です。とくに医学系法学系の学部など,いわゆる国家資格をベースにした学びをする学部では,その責任も大きく,(学問の本質云々とは無関係に)大学卒業後にも乗り越えるべき試練が山積みです。ストレスも多いことでしょう。したがって,そういう学部の受験では,“乗り越えるべき試練”の側面があって然るべきとも思えてきます。

 一方,理学系文学系の学部では,やはり学問そのものへの興味関心がベースにあるべきだと思います。その学部を卒業しても(大きな)資格や就職が約束されるわけではないし,そもそもそういう学部における学びは,自分の関心ないしは問題意識に基づいて研究テーマを設定し,それを黙々とこなすものです。それなのに,十把一絡げとばかりに“乗り越えるべき試練”とみなして受験をするのは,流石に本質に気づけていなくてかわいそうだなあ…と思ってしまいます。彼らは,そこでの学びの面白さを教授以上に伝えることができないので,当然ながら就職活動の際にも苦労するはずです。

2. 受験できる“ありがたみ”に気づけない

 前述の内容と関連しますが,(一部の富裕層や教育ハラスメントまがいの家庭を除いて)受験は誰かから押しつけられた試練ではなく,自ら選んだ道なのであって,それ以上でもそれ以下でもありません。ゆえに,予備校に通っている高校生や高卒生は,そうさせてもらえる環境に感謝すべきであって,決して当たり前のことと捉えてはならないと思うのです。しかし,世の中の風潮として,受験は“乗り越えるべき試練”だと言われてしまうと,その前提に気づけぬまま時を過ごしてしまうことになります。

 現代においては,周囲にいる友達やYouTubeの教育系動画チャンネルなど,一種の意識高い系の存在からの触発を受けて,それが当たり前のものになりやすい状況があるのでしょう。仮に,受験することが当たり前で親に感謝も何もないという生徒がいたとしても,彼らはその後の学問において探究意識が低く,大学における学びのリソースを数%も使えないような学生に成り下がってしまうでしょう。(そういう学生でも結果的に卒業できてしまうのが,現代の高等教育の二面性を象徴していますが…これについては別稿にて)。

 また,自らの置かれた環境が当たり前と思い込み,大学受験をする人生コースしか知らない人間が社会に出ると,極端なことをいえば社会の分断を加速させることになります。昭和期〜平成中期頃までは,生まれた土地や家庭環境次第で教育機会が大きく異なる状況が存在しましたが,その後の映像授業の台頭や格安教育コンテンツの普及によって,その格差は大幅に縮小されました。

 しかし,それがハード面の格差が縮小されただけであることに意識を向けられない人々は少なくないでしょう。若い世代がいつでもどこでも良質な教育を受けられて,成績が向上したとしても,その背後には昔の価値観を残したままの人間が年長者として存在するわけです。とりわけ地方農村部を中心に,「女性は難関大学に行かせても意味がない」とか「女の子だから理系科目が苦手」とか「うちの子はバカだから仕方ないんだよ」とか未だに言っているお爺様お婆様もご存命でいらっしゃるのです。

 そういった環境下で育ったとしても,当人が幸せならば,まだいいのかもしれません。とはいえ,明らかに教育機会は均等ではありません。親ガチャというキーワードが流布した時期もありましたが,まさにこれは親ガチャ(ないしは土地ガチャ)なのです。ガチャに成功(?)した人々は,当たり前のように受験を試練と思って乗り越えている一方で,ガチャに失敗(?)した人々は,相当努力をしない限りはそもそも受験する土俵にすら立たせてもらえないのです。無論,リセマラもできません。前者の彼らは試練を実力で乗り越え,難関大学に合格できたと思っているかもしれませんが,そもそも受験が前提にある時点で(後者にはその選択肢がないのと比較して)幸運なのです。

 楽しく受験勉強をしたうえで学びたいことを学びにいくなら,ガチャ成功勢にも納得ができるものですが,つらいと思いながらイヤイヤ大学受験をして目的意識もなく大学にいくようなガチャ成功勢には,上述のような状況は理解も想像もできないでしょう。必要以上に受験を“乗り越えるべき試練”と描くことで,目的意識もない彼らにも「つらい,きつい」と言い訳の機会を与えてしまうと同時に,世代を超えた教育格差の無意識性を助長しているのではないかと思います。「受験って本来楽しいものだから,つらいならやめれば?」とシンプルに言えるほうが,よっぽどいい社会だと思うのです。

3. 日本の教育(改革)が10年遅れる

 これまでに述べた1と2は,受験生個人やその家庭にフォーカスしたものであったのに対し,ここでは社会全体の話になります。そしてそれは,そもそも高校卒業後の一括入試・一括就職制度でいいのかという議論に関連します。

 受験が,つらくても乗り越えるべき(乗り越えなくてはならない)試練として成立しているのは,就職活動時に大卒が前提となる場面が圧倒的に多いからに他なりません。やりたくもないのに大学受験をしている(させられている)のは,その後の当人の人生の選択肢を狭めたくないからであるという生徒や保護者が大半です。学びたいことや研究したいことがないのに,ただただいい就職をしたいから,つらい受験を乗り越えなければならない。いや,いい就職というよりも,人並みの就職をすることだけが動機になっている,夢もへったくれもない受験生も少なくありません。(事実として,死んだ目をした理系コースの浪人生は皆,口を揃えて「システムエンジニアになりたい」と言います。ただただ,食いっぱぐれないから…)

 しかし,本当は,そういう彼らが大学に行かなくとも,大卒と同等か(あるいは本人の能力次第では)それ以上の報酬を得られるような就職ができる社会を望んでいるはずです。あくまで就職のための資格をGetしに行くだけの4年間を過ごすのだとしたら,それはあまりに長すぎるし空虚です。大学側も,研究する意志がない学生を指導しなくてはならないのは,まさに暖簾に腕押しとなってしまいます。(そういう学生が資金源かつ労働力となることで食いつないできた大学教員も少なくないでしょうが…)

 それよりは,システムエンジニアになりたい気持ちが早いうちから決まっているのなら,専門学校に行って専門的な技術を学んだ方がいいし,そういう彼らのほうが無目的で大学を卒業した連中よりも市場価値が高い(≒報酬も高い)ようなしくみであるべきだと思うのです。確かに大卒の方が対人関係や社会性などにおける経験値が高く,企業としても汎用性が高くて使いやすい,みたいな側面もあるのでしょうが,それも全ては個人の問題であって,大卒でも使いにくいヤツなんて山ほどいるし,逆に高卒・専門学校卒だから使いにくいというわけでもありません。大卒という資格の有無で能力の全てを語ろうとするような現在の社会構造(?)は,もはや過去の遺産なのではないでしょうか。

 こんな状況でもなお,大卒一辺倒なのはなぜなのか。それはやはり,これまでに散々言ってきましたが,「受験はつらく険しい道のりであって,それを乗り越えてきた経験があるから彼らは優秀」というロジックがあるからなのではないかと,私は思っています。揃いも揃って,みな受験を“乗り越えるべき試練”と位置付けているから,必要以上に箔がついて見えてしまうのかもしれません。

 いや,そんなことはなく,ただただ単純に現行のシステムを変えたくないだけなのかもしれないし,企業側が社会人教育を丸投げする言い訳に便利なだけなのかもしれません。実際,そういう姿勢に物申すべく「いまの大学が使えない社会人を量産するくらいだったら俺が大学を作る!」とか曰うて,大学とは名ばかりの教育機関を作った日本○産の○守会長というオジイサマもいらっしゃいましたね…。いずれにせよ,大学における高等教育と社会人教育とは本質的に異なるものであることを理解していない経済界の方々は少なくありません。(まあ世代的に仕方ないのかなとも思うし,「大学」の定義を広く取ればそれも許されるとは思うのですが…)

 そういう勘違いオジイサマの潜在意識にも,きっと,受験はつらくて乗り越えるべき試練というイメージがあって,試験問題しか解けない(現実的な問題を解決することができない)無駄な受験勉強をやっているとでも思ってるのかもしれません。現在の入試改革はまさにそこの問題意識からスタートしているものです。

 でも,大事なのはそこじゃない。大学受験は,学びたい人が学ぶためにやるものであって,問題解決能力の高い社会人になるためにやるものじゃないのです。問題解決能力が高く,社会に必要とされる市場価値の高い社会人になりたい人は,シンプルに大学受験とは別のところでその能力を磨き,必要に応じて“乗り越えるべき試練”を乗り越えてもらえばいいと思うのです。大学受験とそれを同一視すべきでないと思うのです。

 現在の日本の受験観,すなわちこれまで何度も言ってきたような,受験を“乗り越えるべき試練”のようにとらえる風潮が世間に浸透している間は,どうもその同一視は永遠に拭えないだろうし,それゆえに受験を取り巻く諸々の歪みが解消されることもない気がします。その部分の問題意識が希薄なまま,高等教育機関と受験業界がグルになって,企業に都合のいい人間を育てるだけの(高等教育の本質とはかけ離れた)教育が今後も展開されてしまうのだろうな…と,私は思ってしまいます。本当に改革すべきところに意識が向けられないまま放置され,大学側は学ぶ意志もない学生をお客様として受け入れざるを得ないし,受験生側は学ぶ意志もないのに高い金を払わされ行きたくもないのに大学に行かざるを得ないような状況が,今後も続いてしまうのでしょう。

受験は楽しい,楽しいからやるのが理想

 ここまで,3つの点を挙げて,受験がつらいもののままではマズイのでは?という話をしてきました。もちろん,日本の大学入試制度は海外のそれと比較しても格差を生じにくいという点で優れている側面もあります。ただ,その受験を,周囲に流されるまま,試練として乗り越えなきゃいけないと多くの人々が思っている(思わせている)状況は,個人レベルでも,社会レベルでも,望ましくないことのように思うのです。

 冒頭の,カロメinゼリーのCMの話に戻りますが,そうやって困難な壁を突破して大学に入り,就職活動という試練を乗り越え,“立派な企業”に就職できた方々は,きっとまたアサヒスーパードライのCMのような,責任と重圧とその先にある解放みたいなシーンを幾度となく経験し,そういう“カッコイイ自分”と酒に酔いながら人生を歩んでいく,教科書通りのサクセスストーリーを辿るんだろうな…と思っています。(余談ですが,日本人ってGreatest Showmanの「This is Me」好きですよね。この曲の文脈とか一切考えずに,何でもかんでも困難乗り越える系の局面でBGMとして流しがち…)

 ビールのCMは,さすがに今の中高生や大学生には響かなそうですが,しかし世間がそういうイメージを再生産する限りは,オジサマたちのコミュニティが社会を動かしているので,うまくやっていくには,その後染まるしかないことになってしまいます。もちろん,そういう教科書通りのサクセスストーリー人生も全然アリだと思うし,それが生きがいという人間がいても大いに結構です。ただ,そっち側の人間は総じて他者理解が苦手(教科書から外れた人生を理解できない)だったりするので,やはり問題。

 だからこそ,受験は楽しい,楽しいからやるようにシフトしていったらいいな,と思うのです。受験,とりわけ大学受験の本質は,そこで学びたいからやることであって,義務ではないのですから。世間が「受験って本来楽しいものだから,つらいならやめれば?」と言えれば,社会がどんどん本質的に生産的な活動にシフトしていく気がするのです。働き方改革とか言いながら結局形式に縛られるのも,就職活動で服装とか礼儀作法(入室の仕方や椅子の座り方レベルのやつ)とかくだらないことにいちいち気にしなくてはならないのも,結局みんながやっているから,楽しくないしつらいことだけど決まりだからやっている人が大勢いるからです。つらいから言い訳をするのであって,楽しければそういうものは出ない。

 楽しいから受験勉強をするという行動原理でやってきた人は,その大半が上位の大学に行っていて,そういう彼らは一挙手一投足を監視するように評価しなくても,社会人マナーなど手取り足取りやらなくても,自然と評価される。乗り越えるべき試練と思って受験をしてきた人は,相対的に下位の大学に行って,つらいけど決まりだからやるという思考プロセスが卓越してしまっているから,目を話した隙にサボるし相手の状況を考えずに行動してマナー違反となってしまう。後者よりも前者が多い世の中のほうが,確実に生産的だと思うのですが,どうでしょうか。

おわりに

 さて,そんな私も,2年ほど前に「受験が簡単であるように見せかけすぎたらあかんで」みたいな記事を書いていました。今回は「受験はつらく険しいように見せつけすぎたらあかんで」という趣旨ですので,相反する主張をしているように思われるかもしれません。

 でも,それらに共通する私の思いは,各々にとって受験を正当な位置付けで迎えてほしいということです。受験,とりわけ大学受験は,強制されるものではなく,自分の将来を自分で切り拓くための第一歩みたいなものです。それを必要以上にお膳立てして,周囲の大人が囃し立てても逆効果であって,本来の受験の効用(自分で計画して行動し達成する力をつけるなど)を希薄化させてしまうように思うのです。

 受験産業は(ただでさえ少子化の波がきているところに新規参入業者も多いですから)競争が激しくなり,それを反映して必要以上に受験生とその家庭を煽ってきます。私もその中にいるわけで,ボーっとしていると染まりきってしまいそうになります。日々,受験のあたりまえを疑いながら,本当に受験において必要なことを考えていきたいと思う次第です。今日もひとりごと,お読みくださりありがとうございました。

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