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わたしの自慰行為を見て

迷ったんだけれど、自分の昔の話をしようと思う。多少演出が入っているかもしれないけれど、できるだけ淡々と語っていく。鬱な自分語り&かなりの乱文なので注意です。

姉2人は受験をして私立の中学校に進学したので、それに倣って私も受験をすることになった。

ただの塾ではない。当時名古屋でだんとつに頭のいい女子校に行く為の専門塾だった。

テストで悪い点を取れば殴られた。
九九を覚えるまで午前3時まで正座で唱えさせられたのをよくおぼえている。(間違えると頭を叩かれ最初から。賽の河原である。)
壁に頭を打ちつけられたりしたこともあった。(一回母のジャブを避けたから。ヤッタネ✊)
母親に殴られ慣れてた影響か、姉がのびをしただけで自分を守ろうと顔を庇った。
「殴らないって!わたしは!」
お姉ちゃんが悲しそうに言ったのを覚えている。

それでも私はお母さんのことが好きだった。
母の機嫌を損ねないように、にこにこしながら歌を歌ったり踊ったりしてできるだけ楽しく過ごした。

当時発達障害があったので、病院にたくさん連れていかれていた。私は病院という空間がなぜか好きで、先生とはたくさんお話できて楽しかった。でも私が話し終わったあと、「この子は障害者なんです」と言ってさめざめと泣いていた。
(父との不仲などもあり、母は悲劇のヒロインを演出する性質であった。)私はすこし不器用な健常者だという自負があったから、ちょっとムッ!という思いはあったが
母が泣いているのを見るのは辛かった。
自分がいなければ母も私もひとつ救われるのだけれど、自分が死んでしまえば母はもっと悲しんでしまうんだろうな。
小学生ながらに自分をとても無力なものに感じた。
虐めもあったので「塾をやめたい」と実家にいる父親に電話した。
塾をやめたその日に転校手続きをして、3日後には姉や母のいる名古屋から、田舎の実家に移り、住み始めた。
お母さんは「わたしを捨てていくのね」とさめざめ、言い捨てた。

それから、閉鎖的な田舎の中学校に進んだ。
田舎には独自のルールみたいなものがあって、それにそぐわなければ、ならず者として扱われる。ある意味、街よりも監視社会だった。
どうしても“普通”に馴染めず、先生やクラスメイトからの同調圧力(悪いわけではないけれど絶対的に正義を曲げられない人達)に辟易としていた。電車もタクシーもない。絶対に逃げられなかった。
そんな矢先、母が突然帰ってきた。
母は父の事が大好きだったけれど、振り向いてくれない事にやきもきしていて、父のもとを離れたかと思えば突然戻ってくるのだ。
それから毎晩父と母の喧嘩に巻き込まれた。
昼も夜もお構いなしに怒号が飛び交う寝室。
父の携帯に、3分おきに無言電話をかける(出なかったら娘に電話。もちろん3分おきに)
包丁を手に祖母を追いかけ回した事もあった。
父の首を絞めて殺そうとしたこともあった。
(この頃、母はうつ病と双極性人格障害を患っていた)それでも父は、母に優しくするどころか、娘に悪いところを吹聴して「こいつは何も出来ないぽんこつ。甘えるな」と馬鹿にしていた。
母の症状はどんどん悪化し、普通の生活が送れなくなった。
ODで長時間昏睡状態になり、起きたかと思えば手首を切ってベッドを血まみれにしていた。
そんな日々が続いたのに、祖母は「他人に見られたらなんて思われるか分からないから」と絶対に病院には連れて行かせなかった。
ある日父は、睡眠薬を隠した。薬漬けになっていた母は大暴れして、リビングをめちゃめちゃにしてしまった。
見かねた父は母を精神病棟に入院させることを決意。2ヶ月ほど療養した。病院にいる母は穏やかで楽しそうだったのに、退院するとまた暴れた。中学2年から3年までそんな生活が続いた。
私は名古屋の高校に入って、下宿を始めた。
親がいないというだけで、こんなに楽になるんだな。親のいない高校生活が楽しくて仕方なかった。結局、うちの親は父の浮気が原因で離婚した。別居して母は快方に向かったけれど、父のモラハラは治らなくて祖母に強く当たるようになった。親にあまり会いたくなかったから京都の大学に進んで、いま。

私のいまを形成してる過去はこんな感じでした!親のことは愛しているけれど、近くにいるほど疲れるから、一緒にいない方がいいなぁって感じです。親や大人は、子供より経験が豊富なだけで、“まっとうな人間”というわけではないということを伝えたい。
大人だからしっかりしているとか、正しい事を言っているわけではないから、本当に、すこしでも違和感があったら、逃げれるなら逃げてください!
親や同級生や、先生のことで悩んでいることがあれば、私でよければ話聞きますのでね!

#ミスID

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