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津久井道、バリエーションルート

津久井道シリーズですが、前回、

前々回、

と、実走してきたわけですが、津久井道は、津久井の生糸や絹織物: 特に川和縞や、柿生周辺の黒川炭や禅寺丸柿、そして、登戸宿の職人達による日用品を、江戸に売りに行く庶民の生活の道だという話をしました。

津久井の鮎については、鼻曲がりの鮎として風土記にも、"佳品" として取り上げられており、江戸城に献上されていたというweb記事も見ますが、多摩川も同様で、その多摩川の鮎が、1843年に将軍専用献上鮎になって以降は、江戸庶民には、益々津久井相模川道志川の鮎が人気となったようで、そのルートは、小山内裏公園の鮎の道だった、ということでした。

また、津久井道は津久井が始点・終点ではなく、甲州への道筋として意識されていて、入り鉄砲に出女で厳しく江戸から出ていくことを禁止されていた女性たちが、小仏関所を避ける為に東海道で大磯まで、今度は箱根関所を避ける為、大磯から北上、伊勢原を経由し津久井まで、鼠坂の関所では、宿屋の主人に幾らか払って世話してもらい関を抜け、甲州道中吉野宿に出て、以降、甲州道中の上野原、甲斐路の吉田、山中、三島と行って東海道に復帰するといったことも行われていて、正に、甲州道中裏街道という位置付でもあった、ということを紹介しました。

また、津久井道の道筋は、風土記でキレイにトレース出来て、風土記(1841年)から凡そ53年後の今昔マップ1894〜1915年版と同じルートであり、現在でもダムを除けばほぼ同じルートで走ることが出来、前回はそのルートでexploreしました。

今回は、その津久井道のバリエーションルートです。

相模湖が出来たことによる津久井道新ルート

先程の振り返りでも少し触れましたが、この辺りの相模川には、相模湖と津久井湖というダムが作られています。

このダムによって、津久井道は消失したり、、、

今昔マップより、消失の例。中澤村から荒川村への津久井道はダムの底です。荒川村自体もダムの底ですね。
中沢村から荒川村方面の眺望(前回撮影), ここはダムに沈んだ津久井道の現存道のドン突きで、正にここから先で湖底に沈んでいることが分かります。

、、、新たなルートが出来たりしています。

今昔マップより、昭和15年に着工し、同22年に完成した相模湖によって、鼠坂〜吉野宿の津久井道は消失し(十字マークが乗っている道は湖底に沈んだ津久井道), 鼠坂から与瀬宿への新たな津久井道のルートが出来ています。
前回撮影した神奈川県道517号から続く津久井道旧道。この先はボート乗り場で私道と思いましたのでここから先には進んでいません。が、ここからボート乗り場を経て続いていた津久井道は湖底に沈んだのです。

それでは前回同様橋本から行ってみましょう。

中野村川和の新旧津久井道出合い、右が旧、左が相模湖によって新設された津久井道です。

この新津久井道を行きますとR413と直ぐに合流し、R413は三ケ木で南下しますが、新津久井道はそのまま西進するんですが、R412ではありません。

左がR412, 右が新津久井道

この新津久井道、便宜上、"新" と言ってますが、勿論、古道です。この頃の橋は今みたいな高い位置に架橋する建設技術がありませんから、岸辺まで下る必要があります。

今昔マップより、まず、左の1894〜1919年の古地図には新津久井道がありませんね。次に、右の1928〜1945年の古地図には新津久井道があり、その新津久井道は、崖だからでしょう、クネクネと曲がり道志橋へと続いているのが分かります。

ここをまた上るのか、と、思いつつ、道志橋に到着です。

新旧道志橋、旧道志橋は橋脚のみ残ってます。

旧道志橋は勿論渡れませんから、下ったクネクネ道を上り、新道志橋を渡って、新津久井道と重なるR412を行き、鼠坂に到着です。

鼠坂の新旧津久井道の分岐

ここを右に行くのが新津久井道です。

新津久井道を行き、相模湖大橋に到着です。

相模湖大橋
相模湖大橋から相模湖越しの与瀬宿の眺望、相模湖はまだ台風の影響が残ってますね。

甲州への道筋という点に着目したバリエーションルート

さて今度は甲州への道筋という点に着目したバリエーションルートですが、既述の様に、鼠坂にも関があり、鼠坂の宿屋の主人に幾らか払って世話してもらえば何とかなるにせよ、成否は不安定だしコストもかかるので、鼠坂を通らないルートの方がベターでしょうから、それを考えると、寸澤嵐から阿津に向かう途中で北東に曲がり若柳から寺尾の渡しで相模川を渡河し、赤馬に抜けると甲州道中小原宿に至るというルートが津久井道のバリエーションルートとして考えられます。

今昔マップより、この道は高尾から大山に行く大山道としても機能していたようで、大山道とも呼ばれています。
右が沼本の渡しから来た津久井道で撮影者である私の背中側に続いています。左が若柳、寺尾の渡し、赤馬、千木良、甲州道中小原宿へと続く大山道でもある甲州道中裏街道です。
ここがどん突き、藪の中に道筋が残ってるかなと覗きますが痕跡は見つかりませんでした。

同様の理由で、若柳から更に相模川右岸を詰めて、原下の渡しで奥畑から千木良に渡るというルートもあったようです。

今昔マップより、若柳、奥畑、千木良の原地区に赤ポイントを付けました。千木良の原地区は地図自体に地名の記載はありません。若柳から奥畑まで、両点線の道が行っているのが分かると思います。奥畑からは片点線が相模川に向かって直角に行っていて、その後、岸沿いを行き、千木良の原地区の赤ポイントにある片点線と続いています。これが、原下の渡しと思われます。
こちらも同様に痕跡を探すも見つからず

ということで現代の渡しである桂橋を渡って甲州道中小原宿を目指します。

相模川は左に蛇行してます。岬に阻まれて見えませんがその後右に蛇行します。その辺に寺尾の渡しがありました。

千木良村の西地区の鎮守、牛鞍神社に参拝しつつ、

牛鞍神社、この辺りが、裏街道の中心地、でしょうか。

原下の渡し場跡に続いているかもしれないと思った道は、気配はムンムンも藪が酷くて行く気になれず、、、

ガードレールも残ってて、最近まで使われてたはずで気配はある。

、、、弁天橋から原下の渡しを見てみようと:

ここも岬に阻まれて。右に蛇行後、左に蛇行した所に原下の渡し。
こちらは上流方面
底沢から相模川本流を望む、ここでランチ。ただの握り飯ですが最高に美味かった。
お地蔵さんは新し目ですが隣の塔には安永○(忘れた。)年と彫ってあり、ここが江戸から続く古道ならこの道が原下の渡しへの道で、ということは、弁天橋の辺が原下の渡し?!と、思ってしまいました。古地図ではもう少し下流のはずで、これまでの記事ではそのように書いています。

ということで、古地図から想定する原下の渡しは岬に阻まれて眺望できませんでしたが、もしかしたらここが原下の渡しだったかもしれないという新たな考えも出てきました。そういったweb記事も散見されます。

その原下の渡しには1647年から右岸側に奥畑番所があって、人改めをしていたと言いますから、鼠坂同様、おいそれとは裏街道利用は出来なかった可能性があります。

しかししかし、この地が1705年に幕領となった後は、番所の礼金が出なかった(幕府の施設ではあるものの地元民に委託していた。)ことから、欠勤も多かったようで、その場合は、裏街道利用出来たようです。尚、奥畑番所はそれでも幕末まで続いたとのことですから、1705年から150年程は、割と自由に行き来出来たのかもしれません。

赤馬・千木良は、大戸から梅木平、大平、武蔵越を経て赤馬・千木良に達する甲州道中裏街道もありますから、裏街道として機能した集落だったということになります。いやいや、興味深いです。

赤馬から武蔵越に続く古道は今も当時のまま残ってます。
武蔵越古道から南方面、若柳の眺望

武蔵越ルート、寺尾の渡し、原下の渡し、何れもここがゴールです。甲州道中と合流です。

左が甲州道中、右が千木良からの道筋、甲州道中裏街道です。

◇■□◆

如何でしたでしょうか。

津久井道、前回と前々回は江戸と津久井までの道を、そして今回はそのバリエーションルートをexploreしました。

津久井道は、ルート上の産物を江戸に売りに行く言わば庶民の生活道だった、ということでしたが、相模湖によって江戸から続いたルートが変更になっていました。また、津久井が始点・終点ではなく、甲州へと続く道筋で、甲州道中裏街道でもありました。

津久井道シリーズの次回は、大磯から伊勢原を経由して津久井に入り、鼠坂関に至る、出女裏街道をexploreしたいと思ってます。

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