RYOKO HATTORI
「きょうのおはなし」を綴っていくマガジン
「シュレディンガーの猫」の話みたいな。「猫は死んでいるでしょうか!?生きているでしょうか!?さ~ぁ、どーっちだ!?」・・・答えは「死んでるかも知れないし、生きているかも知れない」 それが事実(真実)である。 情報ってそんな感じ。
情報と知識の違い。情報は当てはまる人と当てはまらない人がいる。流行り廃りがある。例えば、「〇〇はカラダに良い」っていう情報は、確かに〇〇によって健康になる人もいれば、全く変わらない人もいる。知識というのは、だれにとっても当てはまるし、流行り廃りがない。永遠にそれはそれというもの。
小さい「わたし」は自分で自覚することができるが、大きい「わたし」を自覚できる人は少ない。なぜなら大き過ぎるから 笑。例えば、「5人」って言われたらスゴく分かりやすいけど、「5億人」って言われたらちょっと想像しにくいでしょ?そんな感じ。「人知を超えている」ってそういう感じ。
「わたし」である。「わたし」には大きい「わたし」と小さい「わたし」がある。「食べたい」と言っているのは、小さい私である。大きい「わたし」にとっては必要がないのに、小さい「わたし」が「欲しい!欲しい!欲しい!」と言っているのである。
「食べる必要がない」と思うと、スゴく気がラクである。自分には必要のないものなんだ と。「食べちゃダメ」だと苦しいけど、「食べなくてもいい」だと「なぁんだ」ってなる。「だって食べたいんだもん!」ってなったら苦しいかも知れないけど、「食べたいんだもん」って思っているのは、
何かを“食べない”という選択をしているだけ。「えええ~!こんな美味しいもの食べれない(食べない)なんて可哀想~!」って反応は正直無知だなと思う。アレルギーの子を持つ親が「みんなと同じように食べれない」ことが可哀想だとみんなと同じようになるようになんとかしようと頑張っているけれど、
ヴィンヤサヨーガは流れるようにアーサナをとっていくスタイル。いまのポーズは次のポーズへの伏線。それが流れ流れ繋がっていく。いちいち形にとらわれていると、本質を見失う。休息(静止)と活動(動作)の繰り返し。休息は活動に勢いをつけるもの。ヨーガの目的は安定と快適。もう、それな。
20代前半までは肉体をしっかりと準備する時期ˊᵕˋ 十分な滋養が必要な時期。 ↓ 神経系、脳みそも同様。25歳くらいまでに完成する。それまでに十分な滋養が与えられなければ、その後が結構大変。
私たちは“あること”をやるために生まれてきている。(“あること”の内容は人によって異なるが、本質的にはみな同じ)。“あること”をやるための道具(ツール)として肉体というハード面がある。20代前半まではそれをしっかりと準備する時期ˊᵕˋ 十分な滋養が必要な時期。
「他で解消しても、根本からアプローチしないと結局解決しない」 「大体のことはシンプルに解決できる」 https://trilltrill.jp/articles/3549814
自分から出てきたものを、自分でしっかり見て、片づける。 どんな世界を自分が創造してきたのか、知る。 他者任せにしていると、どんどん自分自身のことが分からなくなるよˊᵕˋ
ある意味、ほとんどの人は認知症だˊᵕˋ 「本当の」自分の姿を忘れてしまっている。分からなくなっている。
自分自身に意識(注意)を向けさせないように仕向けられている(仕組まれている)ˊᵕˋ =自分「で」考える = 自分の頭で考える = 脳を使わせる をさせないようにしている・o・
困ったことがあればすーぐに解決できちゃう商品が手に入る時代ˊᵕˋどんどん自分で自分のこと分かんなくなっちゃうよね~ˊᵕˋ 怖い怖い。 自分の世話は自分でˊᵕˋ 自分をしっかり見つめればあらゆることが分かるはずなのにˊᵕˋ
「無邪気」の“邪気”ってな~んだ!?ˊᵕˋ ― それはね、自分の好き/嫌いの判断。つまり、執着/憎悪のこと•⌄•
神経系のストレスがなくなれば、いろんなものが要らなくなる。 「これだけはやめられない」「これが好き!」というのがなくなる。持ち物、考え方がシンプルになって軽く明るくなるˊᵕˋ