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むやみに論理を投げないでください

人となにかの話をする。
雑談ではなく、テーマがあって話す。
会議で議論する場合でもいいし、ご飯を食べながら映画が面白かったかどうか話し合うのでもいい。

ある人の口から発せられたある意見には論理的な背景があって、その論理は体系化されていて、様々な視点や価値観がお互い矛盾しないように調整されており、常に自分にも相手にもフェアである。

はっきりと言語化できていたわけじゃないが、誰にとっての理想も、こういうものだと高校生くらいのころまで信じていた。
ところが大人になるにつれ、場面場面で使っている論理のちがう「いい人」がいることにようやく気づいた。
気づいてみれば身の回りにもいる、家族にもいる、たくさんいる。
自分自身の理想を優先させたいあまり、周りが見えていなかったとしか言いようがない。

一見するといい人だけれど本当は冷たいとか優柔不断だという意味での「いい人」ではない。
素直な意味での「いい人」である。
だから、わたしはとても困った。

悪意でこちらを利用しようだとか、とにかくわがままを聞いてほしいという人であれば、こちらも真摯に相手をする必要はない。
けれどまごうことなき善良な人たちが、そのとき手元に転がっている論理をその場の都合で投げてくる。
むしろ、優しくて人情家のひとほどそうである確率が高い。

一貫性はない。
ダブルスタンダードでも構わないし、フェアであることも求めていないように見える。

私は当然、人情家でもないし優しくないし、この上なく理屈っぽい。
だからしょうがないのだが、理屈を喋ると冷たいと言われる。

わたしは、価値観や感情は、理性の上位にくるものだと思っている。
最初に、喜怒哀楽があって、大事にしていることがある。
それらが果たして正しいのか、矛盾していないのか、理性でチェックしているイメージである。
繰り返しチェックした結果、今の自分の考え方や理屈のこね方の癖ができあがった。

首尾一貫した言動で、自分にも他人にも誠実で、あらゆる面から見て公平な人。
もしも実際にそんなひとがいたら、それはもはや人ではなくイデアである。

だからわたしは善意があれば論理立てがぐちゃぐちゃでも気にしないことにした。
もちろん、善意によって自分や周りが迷惑を被りそうな結果が予想されるときは別だ。
それには、しつこく反対するか、でなければ逃げる。

つまり言いたいのは、自分のわがままを通すためにむやみに論理を投げてんじゃねーよ、せめてちゃんと選んでぶつけてこいよ、という話である。

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