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傍観者としての主体

今日は、いつにも増して論拠のない妄想だ。

電話交換は昔、人間の手で行われていた。
部屋に何台もの交換台が置かれ、その前に座った交換手が次々に掛かってくる電話を希望の回線につなぐ。
人間の意識や主体は何かというのは遠大すぎる哲学的、生命科学的テーマだけれど、たまに、主体とはこの交換部屋のようなものではないかと思うことがある。

外界や体内の情報は五感を通じて脳に入力される。
それらは大脳の前頭葉かどこかに集められて、必要ならば別の場所に送られる。
痛みを感じて対処する場合には、運動神経を司る神経領域に送られるだろうし、何か考えたい場合は思考する場所へその材料を提供する。

ここで言いたいのは、主体は考えていないし記憶もしないし痛みを覚えてもいないのではないかということだ。
我々の意識は、別の場所で思考した結果や、外界の情報や、海馬から引き出された記憶や、「痛い」という情報が集まってきて、また必要な場所に送られるための「ハブ」に過ぎないのではないか。

例えば、熱せられた鍋に誤って手を触れてしまったとする。
痛覚からの情報は、まず大脳に届く前に脊髄で処理され、手を引っ込める動作が指示されるだろう。
それから大脳の「主体」を司る場所に届けられ、ほぼ自動的に、プログラム通りに、情報処理を担当する「部署」に送られる。
担当部署からは、「顔と目を動かして手を見る指令を運動神経(小脳)に出しました」と報告が来る。
また別の部署からは、「流水で冷やすことに決まりましたので、これも小脳に伝えておきました」と判断の結果が返されてきた。
それらをまた別のもっと抽象的な情報処理を行う部署に転送し、これからは熱せられた鍋には触れないようにする方針に決まったことが伝えられる。

主体は全てを行っているような感覚でいたけれど、各所をつなぐという大切な役割を果たしつつ、しかしあらゆる決定に口を挟まない傍観者として捉えた方が、感覚的にしっくりくるようになってしまった。


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