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楽しそうに彷徨う

ある日の未明、という書き出しで始まると事件のようだけれど、これは例え話だ。

まだ真っ暗な中、森の中を歩いているとする。
ポスっという音が地面からして、よく見ると木の実が落ちている。
拾い上げてよく見ると少しつぶれていた。

「これは木の上の猿が食べようとして落としたものだ」

とその人が言ったとする。
動物が落としたのかどうかもはっきりしない。
それが猿であるかもよくわからない。
その森には猿が住んでいるとか、猿は木の実を食べると言われているとか、推測するための材料はいくらかあるかもしれないが、いかんせん確定的ではない。
それでもそういう仮説を立てたとする。

実際、科学研究において、最初に立てられる仮説はこのくらいあやふやなものが多い。
もちろん、色々な反論を受ける。

いやいや自然に落ちただけだろうとか。
鳥が落としたものに違いないとか。

不思議な現象に初めて出会った時、物事の本質はよく見えない。
観測技術が追いついていないからだ。
逆に言うと、はっきり観測できるものはとっくの昔にケリがついている。
だから、暗闇で見つけた木の実から、木の上で何が起こっているのかを想像するしかないような、そんなところからデータの収集は始まる。
本当に、真実は杳としてしれない。

そこに研究者が食いつくかどうかは、科学的に大切かどうか次第だ。
木の上に何か動物がいるのなら、そこで猟や採集をしている人々にとっては死活問題かもしれない。
攻撃的な動物であれば、自分の身が危うい。

だったらちゃんと調べた方がいいとみんなが思って、一斉に研究が始まる。
最初の仮説が間違っていても大きな問題ではない。
問いを立てることこそ、大切なのだ。
だから、調べた結果、木の上には小鳥がいましたと結論づけられても一向に構わないのだ。
調べるきっかけを与えてくれた研究者は、先鞭をつけたということで尊敬される。

それにしても、証拠がない中で大胆に仮説を立てるには、勇気がいると思う。
問いを立てたことに敬意を表しながらも、いや、それが故に、より激しく反論される。
だから必死である。
必死に証明しようとする。
明るいところで観察すればはっきりするだろうと思って、昼間来てみれば、木の実は落ちてこない。
きっと夜行性なのだろう。
じゃあ次の手だと息巻いて、松明をたくさん使い闇夜を照らせば、動物たちは逃げて行ってしまう。

直接見ることを諦めた人たちは、木の実を重点的に調べるかもしれない。
木の実の潰れ方や、どのくらいの割合で潰れているのか。
もしかしたら多くは自然に落ちて来ているだけで、潰れていないかもしれない。
そうすると、最初に見つけた潰れた木の実は、ただの偶然だったと疑う人が増えるかもしれない。
そういった中、真実に繋がる何かがあると信じて、ひたすら潰れた木の実を集める。

事情の分からない人から見ると、何を必死になって木の実を集めているのだろうと思われるかもしれない。
けれど本人たちにとってはとても大事なことで、良い結果が出れば喜び、結果が出ないと、のたうち回ったりする。

そういう全ての過程を、楽しみながら苦しみながら少しずつ進んでいく。
幸運に預かれば、最初に真実にたどり着く人になれるかもしれない。
どの方向に進むべきなのかが分からないまま、自分の信念に従って暗闇を彷徨い続けられる人にしか幸運は訪れない。
研究に限らず、何かを生み出す行為はみんなそうだと思う。
彷徨い続けられる人は大抵、彷徨っていること自体が少し楽しそうだったりする。
わたしにはなかなかマネのできないことだから、より一層、敬意を抱いている。

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