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勉強してからやるか、やってから勉強するか

大体、座学から入るタイプだ。
かといって、体当たり的に現場に出て実際に手を動かしたり体験したりしてから改めて勉強する方法論を否定しないし、むしろ羨ましいとさえ思う。

自分は典型的に、抽象的な説明から始まらないと理解できない頭の構造をした人間だと思う。
アウトラインや基本原則を示してから具体例を説明されないと何も頭に残らない。
アニメを見始めたのは、アニメについて語っているのを聞いて興味を持ったからだが、「今週のあの番組おもしろかった」のように個別具体的な話だったらそんなに惹かれていなかったと思う。
それよりも、

アニメキャラの髪の毛の色は性格を反映していてその文化は特撮に由来する。
金髪ツインテールはツンデレの記号。
話の展開に劇的な要素のない『日常系』の本質的定義とは何か。

などといった、ちょっとだけ抽象的で一般的な話が面白くて見てみようという気になった。
それから実際に作品を見てみて、自分で考えて、また話を聞く。
視聴した作品数が増えるにつれ、最初は理解できていなかったアニメの文化やお約束、大げさにいえば「法則」が分かるようになった。

座学から現場に出て、また座学へ戻る。
抽象から具象へ、そしてまた抽象へ。

ところが、だ。
仕事にしている生物研究はどうかというと、完全に、現場の個別具体的な事例として始まった。
大学院に入学し実験を始めてから教科書的な勉強をした。
普通は逆だろうと自分でも思う。
順序が逆転した経緯は省略するが、通常、大学の学部生で基礎的な知識を身につけるとともに、卒業研究を通して研究の実際に触れてから大学院に入学するはずだ。

アニメは一般論から入ったくせに、生物研究は座学をすっとばして現場から始めてしまった。
自分の要領の悪さに嫌になってしまうけれどまあそういう人間なのだと思う。
ほぼ手ぶらで大学院生になる人間はそう多くはないと思うし、舐めているにも程があるわけで、おかげで最初の1、2年は苦労した。
最初の、と書いたけれど、そのあと楽になったとか追いついたということではない。
単に慣れてしまってつらくなくなっただけだ。
むしろ未だに、きちんと基礎的な過程を履修した人間には追いつけていないと思うけれど、それはもうしょうがない。

それに当時は、追いつける追いつけないといったことよりもずっと、知識のない状態で作業することそのものがつらくて仕方なかった。
「まずはやってみる」という方法論を本当に苦手としているのだと痛感した。
単にできない状態が嫌なのではないかと聞かれれば、確かにそういう側面もあるのだけれど、それだけではない。

わたしは中途半端に英語の発音が好きだが、英語の発音について調べるのはすごく楽しかった。
だからといって綺麗に発音できるわけではない。
それが悔しくも嫌でもない。
初歩的なレベルだけれど、理解できたことに満足してしまっている。
実際にできるかどうかはどうでもいいと思ってしまっている。
きっと実験についても、原理とか目的とかを最初から理解していたのなら、実際に実験がうまくできなくてもつらくはなかったかもしれない。
それはつまり、何が何でも結果がでないと我慢できないというタイプではないという結論になる。
実験科学に身を置く者として致命的かもしれない、とたまに思う。

いずれにしても、仕事ができるようになるためには教科書的な知識と経験とが渾然一体にならなければいけないのだから、どちらから始めてもいいのだと思う。


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