無意識に無効化される

権威の無効化、が好きだ。

お葬式のコントなどは最たるもので、あれは人が死ぬことを馬鹿にしたり軽んじたりしているわけではなく、形式を重んじなければならない場面を利用し、権威をいじって遊んでいるのだと思う。

いわゆる2ちゃんねる的な文化とオタク文化の違いや線引きは未だによく分かっていないのだけれど、アニメや漫画作品を元に様々なネットミームが生まれてきているのだから、文化としてそれなりにオーバーラップしていると思う。
その文化が流れ込んだTwitterでは、文学や科学、政治などの「真面目」なトピックスが、「萌える」とか「尊い」、「ムリ」、「死ぬ」などといった言葉や感情で消化されていく。
半ば無意識に、権威のありそうなものからそれを剥ぎ取っている。
権威への反発とは書かずに無効化としたのは、別段これらの行為が、権威の否定を目的としていないからだ。
自分が楽しみたい、自分の好きなものを追いかけたいという、実に俗物的で個人主義の根幹たる要素をもってして、その結果、権威が亡きものにされている。
わたしの中には作為に対しての強い抵抗感が存在していて、だから意識的になされる反発よりも、結果そうなってしまった無効化の方が好きなのだと思う。
元々は関西で生まれた「ドヤ顔」という言葉があっという間に広まって定着したのだから、作為に対する抵抗感はとても日本文化的な現象なのかもしれない。

無効化は、ドヤ顔全開で繰り広げられる欧米の社会風刺的手法による価値観の相対化より、わたしにはずっと爽快だ。
自分の好きなことを夢中で語っているツイートを読んでいたら、今までは難しそうとか、お高くとまっていそうという先入観を抱いていた古典作品や学問が、一気に親しみやすくて魅力的に見え出す、その瞬間が好きだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?