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素養ってものがあるだろうよ

生命科学者に、人文科学的な教養が必要なのか、ときどき考える。
実験がうまくいかないときの、現実逃避の一環だ。

湯川秀樹博士は、漢文を読む中で中間子理論のヒントを得たという話をどこかで聞いた気がするが、真偽は不明だ。
もし仮に本当だとしたら、人文科学の素養は自然科学研究の役にも立つことになる。
それはそれでいいことだ。

しかし、それとは別に考えるべきことがふたつある。
役に立たないと要らないのか、ということと、研究に直接、インスピレーションを与える以外に役立つケースはないのか、ということである。

正直に言うと、役に立つ、立たないという話は好きではない。
基礎研究をやっていると、それは一体なんの役に立つのか、と世間から迫られているような感覚を抱くからだ。
一種のトラウマみたいなものかもしれない。

研究者という視点から離れて、ひとりの人間が人生を生きる上において、歴史とか、文学とか、哲学とか、音楽とか、絵画とか、そういうものに触れた経験というのは、生きる意味を考えさせてくれたり、生きる楽しみになったり、いろいろと「効用」はあると思う。
それは各人の個別具体論だから、ここではいったん置いておこう。
また、研究に直接、役立つことがあるのなら、自然科学に携わるひとたちはみんな人文科学を学ぶべきだ。
その話もいったん置いておこう。

ここで触れておきたいのは、人文科学は間接的に自然科学の役に立つという話だ。
例えば、凄まじい業績を積み上げて、偉くなった研究者がいるとする。
そうすると、広い意味での「政治」をやらなくてはいけなくなる。
例えば、学部の責任者になったり、研究所の所長になったり、もっと偉くなれば、研究予算の配分に携わったり。
わたしには一生縁のない話だ。
そういう先生方は、自分の研究だけではなく、自分の所属する分野のことだけでもなく、学部のことだけでもなく、日本のことだけでもなく、広い世界の今後の行く末を見通す必要がある。
自分の仲間に、研究予算と学生とが回ってくることに執心している場合ではないのだ、本来。

科学だけではなく、社会のことも、政治のことも、経済のことも、ある程度分かっていなければならない。
未来を予見するためには、歴史に学ぶ必要がある。
そういう時こそ、リベラルアーツの出番のはずだ。

実際に、偉い先生方の多くは、研究に関係のない本を読んだりしていて、いろいろなことを知っていらっしゃると思う。
どうか、そういう先生方が、日本の研究の未来を決めてくれることを、片隅で祈っている。


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