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環境によって変化するって、それはそうだ

部分の総和が全体にならないことに時々、心をやられる。

「がん」の性質を明らかにして、そこから新しい治療法に繋げようと研究をする。
どうしてがん化するのか。
がん化した結果、どういう性質を持つにいたるのか。
それを理解したいと思って日々、実験を繰り返す。

実験することは、対象に干渉することと同義だ。
生物学でいうと、生き物に何かしらの操作を施す。
例えば、薬剤Aを加えてがん細胞の増殖が止まれば、薬剤Aにはがん細胞の増殖を抑制する何かしらの機能があると分かる。
逆に、がん細胞に存在する「増殖のためのシステム」は薬剤Aの影響を受けることが分かる。
このごく基本的な理屈に沿って、研究は進められる。

実際に研究を行う上で、なるべく実験系は単純な方がいい。
単純化のために、患者から提供してもらった組織から、がん細胞だけを取り出して体外で培養できるようにしたりする。
がん組織には、免疫細胞とか血管とか、がん細胞以外のものが混ざっているから、そのままだと実験の結果を見づらい。
がん細胞だけにしてしまってから実験して結果が出れば、その薬剤は間違いなくがん細胞に効いていると分かる。
HeLa細胞という、ある女性患者の子宮頸がんから培養されたがん細胞株(体外で培養しつづける細胞には、「株」がつく)は何十年にもわたって世界中の研究室で使用されている。
名前は患者のイニシャルからとられた。
こうした単純化された「系」を使って、ひとつひとつ草を踏み分けるように、真実に迫ろうとする。

増殖を止めることが分かったら、次は細部の仕組みを知りたい。
細胞の中には、増殖をコントロールするシステムがいくつもあるので、そのうちどれに薬剤Aが関与しているのか、当たりを付けつつ実験を進める。
そうした作業を何年間か続けて、ひとつの論文にまとめて報告する。

ところが、だ。
この薬剤Aがそのまま患者に効くかといったら必ずしもそうではない。
薬剤の濃度が低すぎてダメだとか、がん細胞にも効くけど正常な細胞にも影響があるので使いにくいとか、そういうこともよくある。
でも、ここで言いたいのはそういうことではない。

細胞は体外に取り出した瞬間からその性質を変化させる。
がん細胞に限らず全ての細胞はそうである。
体内とでは環境が違うから当然といえば当然だ。
細胞は周囲から栄養を供給され、様々な刺激を受けながら生きている。
別の環境に行けば、それはもう別の細胞だ。
体外に取り出して培養できても、それは別の細胞だ。

せっかく頑張って培養できる条件を見つけても、同じ細胞ではなくなってしまう。
全てが変わるわけではないのだけれど、何が同じで何が変わってしまったのかを正確に知ることは難しい。

あるいは体内では、周囲の細胞ががん細胞を助けて、薬剤を投与しても増殖が止まらないという可能性も考えられる。
パーツ同士が相互作用するネットワークを形成し、ネットワークがひとつのシステムを形成する。
そういった場合、部分を足したからといって全体にはならない。

2000年代に突入する頃、そういった結果を研究者たちが強く意識しはじめ、ある人たちは、細胞ではなく個体(身体全体)を使った研究に移行するべく、技術的格闘を始めた。
別の人たちは、細胞同士が作り出すネットワークを解析するために、工学や物理学の分野から数学的手法を取り入れ始めた。

研究はこの20年でずいぶん進んだけれど、まだできないことの方が多い。
複雑なものを複雑なまま扱うことの難しさに、今でも時々、心をやられる。

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