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懐手して宇宙見物、するにも旅費が必要でしょ?

寺田寅彦の随筆集に、アインシュタインの教育論について触れた文章が収録されている。
読むと、アインシュタインはリベラルな教育論を持っていたことがわかる。
女性の能力に対する評価が不当に低いのを除くと現代とほぼ変わらない。
女性蔑視は彼の気性というより、全ての人間は時代の風潮から逃れられないことに由来すると考えた方が自然だと思う。

全員の能力を底上げする量的教育と、飛び抜けて優秀な、いわゆる天才を生む質的教育は自ずと違うことに触れていて、このあたりの事情は現在とさして変わらない。
各人の性質に合わない科目を無理に学ばせる必要はないとも述べている。
卒業試験や入学試験の存在にも懐疑的だ。
最低限の素養ができたら上の学校に進級させて、専門過程を学ばせればいいと言っている。
また、多くの人が数学を面白いと感じず、忌まわしい思い出として記憶されるのは、ひとえに教える側の問題だと指摘している点も不変の課題だ。

実感を伴わない、数式の羅列に終始する授業は、多くの子供を惹きつけない。
逆に、子供が自然に持つ学びたい気持ちを引き出す授業の一例として、塔の高さを測定する実験を挙げている。
塔に登らずに、その高さを測る。
適当な棒を地面に立て、棒の長さと影の長さを測れば、その時刻における太陽の角度が判明する。
その比率と塔によって作られた影の長さから、塔の高さを計算できる。
こういった実験を実地で体験させれば、公式や定義などの抽象から入るよりもずっと自然に、子供達は相似の概念を知ることができる。
また、実地が難しい場合には、映像を使えばいいとも言っている。

アインシュタインの教育論を知って、わたしもこういう教育を受けたかったと思った。
教育の方法論の本質は百年前から変化していない。
生徒の好奇心をきっかけにした教育はいつの時代も有効で、問題は、資金と人材の確保と権威主義による妨害だ。

いくつかのエリート校では、生徒の自主性を重んじて、彼らの興味の従う学習によって成果を上げていると聞く。
しかし、それを全体に敷衍することはできない。
まずもって、彼らは平均して良好な知的環境にいる。
周囲に知的好奇心を抱いている大人がいたり、子供の頃から学問的な欲求に気づく機会も多い。
自分のロールモデルとなり得る存在が身近にいたり、教育を受ける経済的なな余裕がある。
つまりは総じて、彼らの好奇心を阻害する要因が少ない。
彼らにも、それぞれに事情があるだろう。
大変な環境にある人もいると思う。
私にも、かなり徹底的に好奇心を潰された経験がある。
だから、ここでしているのは平均の話だ。

属人的な環境によらず、包括的に好奇心を伸ばすような環境を、社会や学校が用意するとしたら、より一層の人材と資金が必要だ。
それに、人間は各々、性格や能力や特性が違うのだから、万人に当てはまる良い教育方法はない。
あるのは、「マシ」な方法だけだ。
英語の"better"よりもっと消極的な意味で、他より優れているという意味での「マシ」という考え方はすごく大切だと思う。
全てがうまくいく方法がない限り、より欠点の少ない方法を考えた方がよほど現実的だ。
生徒の自然な好奇心を利用する方法の良いところは、効果が最大であることで、一方、その欠点は人材と資金がかかることにある。
だから時々、教育について素人ながらに考えてみるが、「いいから税金をたくさん出してくれよ」という結論に結局はなってしまう。

どんな教育方法を選ぶにせよ、予算は必要だ。
予算を計上すればするほど実現可能な選択肢が増え、多様性を増すほどに人材が集まる。

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