2021年9月15日

コロナ禍が始まったころ、フランスのマクロン大統領はこれを戦争だと言った。具体的にどういう意味を込めたのかは分からないが、国民に長期の忍耐を強いるとともに連帯を求めるというのであれば妥当だと思う。

1914年夏に第1次世界大戦が勃発したとき、欧州諸国は熱狂の嵐に包まれた。ドイツではそれまで「祖国なき輩」と呼ばれていた社会民主党(SPD)ですら戦争を支持し、フランスでは高齢の歴史家が「生きてこの戦争を見た」喜びを語った。老いも若きも、大衆も知識人もナショナリズムに無邪気に酔いしれるなか、大半の人は明確な根拠なしに戦争の早期終結を予想していた。14年のクリスマスを家族と過ごせると思い兵士は戦場へと赴いた。

戦争が長期化すると各国で厭戦感が広がっていった。家族や友人が戦死し、終わりの見えない不自由な生活がいつまでも続けば、「いったい何のために戦っているのか」という疑問が湧いてくるのは自然である。セルビアのナショナリストによるオーストリア皇太子の暗殺(サラエボ事件)が、これに無関係の人同士の殺戮を正当化する根拠などそもそも存在しない。

戦争の悲惨さに比べればコロナ禍の負担は小さい。それでもこれまで当たり前のように享受してきた旅行や外食、交友が長く制限されると、ストレスがたまる。国や州の制限措置への批判が出るのはこれまた自然である。

しかし、批判があるがゆえに政府・与党には納得のいく説明が求め得られ、メディアが主な媒体となって幅広い議論が恒常的に繰り広げられている現在の状況は当時と違う。そうした回路のなかった帝政ドイツと帝政ロシアは革命で滅んだが、メルケル首相は高い人気を保ったまま引退できる見通しだ。政策を誤ると感染者が急増するという難しい状況と世論、最先端の科学的知見を踏まえながら決定を下し、政策の意味を辛抱強く説明し続ける姿勢は多くの市民に受け入れられる。民主主義が強靭な所以である。

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