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自分、「ロミオとジュリエット」について一言いいっすか?

■今日は、「ロミオとジュリエット」について言いたいことを言います。

お久しぶりです。ヨハクノート代表の臼杵です。
最近Twitterに長文投稿する機会が増えたので、たまにはしっかり文章を書こうと思い、こちらに文章をしたためます。
今後も続けられたらいいなあ。

「団体のnoteじゃなくて個人のnote作れよ。」

的な内容になるかもしれません。が、ここに投下します。
というのも、このnoteの説明欄をごらんなさいな。

実演を中心に演劇を行うプロジェクト「ヨハクノート」のnote。
不定期更新。稽古場の様子や代表の思いつきを書き連ねる予定。

ということで、代表の思いつきです。どうぞよしなに。


■ロミジュリを二本観に行きました。

最近、ロミジュリを立て続けに見ました。

Noism1×SPAC 劇的舞踊vol.4『ROMEO&JULIETS』

しあわせ学級崩壊『ロミオとジュリエット』

まずはそれぞれの感想。
NoismのロミジュリはTwitterに書いたので転載で済ませる。

※あくまで感想なので中立的な立場など一切無視です。
※未見の人に上演のディティールを伝える配慮もないです。
※いずれできるようになりたいけど最初からこだわると続かないのでご堪忍。

■Noism1×SPAC 劇的舞踊vol.4『ROMEO&JULIETS』

ダンスカンパニーによるロミジュリはCHAiroiPLIN以来二度目。
NoismのダンサーとSPACの俳優が半々ぐらい。
身体強度の高さがエグイ。
サイボーグみたいな肉体が躍動するシーンは垂涎モノ。
ただ、単純な好みで言えばそんなにハマらなかった。
自己分裂や医療振興など解釈の仕方は興味深いのだけど、ロミジュリの持ち味を殺し過ぎてないか、というのが一番引っかかった。演出的な料理の仕方がハマらなかったというのが一番正確かも。
これは完全に私見でしかないのだけど、やっぱりロミジュリは精神的にふにゃふにゃなロミオが「愛を貫く」というオーバーワークを死を以てやり遂げる危うさとドライブ感に対してヤキモキしたりヒリヒリしたりするのが醍醐味だと思うので、今回の精神的にも肉体的にもマッチョなロミオがどうも受け入れられなかった。
登場キャラやシーン自体もかなり削っている割にスピード感がなかった。
第一幕はダンス要素強めでかなり抽象的な展開。
時々挿入される台詞は「いま、このシーンをやってます」という注釈程度。
一方、休憩を挟んだ二幕以降は一気にドラマを押し進めていく。
個人的には「構成、逆なのでは?」という気持ち。
シェイクスピア、しかもロミジュリをやる以上は、「筋書き」の引力は強大で、そこから早い段階で距離を置こうとうする意図があるのかもしれないが、後半どんどんその引力に引き寄せられていき、特に抗う感じもないのでちょっと醒めた。
というよりは「やっぱロミジュリはおもしれえ」に収束していった。
逆に、序盤でこのメンバー、この空間、この上演とロミジュリのテキストを同期させ、そこから徐々に離脱していく様を見られたら最高に興奮しただろうと思う。
でもやっぱり大きい空間で観る舞台芸術もいいなあと思う、気持ちのいい時間でした。

■しあわせ学級崩壊『ロミオとジュリエット』

音楽スタジオでの公演。
4壁面に役者がそれぞれ配置され椅子の上に立ち演技をする。
観客は任意の位置で少し見上げるようにして上演を見る。
固定客席はなし、上演中の移動自由。
この手の上演形式が大好物なので開場~開演まで部屋をウロウロして見え方や音の聞こえ方を探る。
上演が始まると、少し高い位置で俳優が作る「世間なんて関係ない!」と盲目的になっていくロミオとジュリエットの【物語のレイヤー】と、それを傍観する観客たちが作る【世間のレイヤー】の二種類が存在する。
(俳優たちがつけてるVRゴーグルは「恋は盲目」のメタファーかな。だとしたら椅子の上に立つのは「浮足立つ」ってことか?あとデッサン人形は「支配」とか「独占」のメタファーかしら。)
見てるうちに段々とお客さんの視線が気になってくる。
爆音EDMにノッている自分を見られているのではないかという自意識に襲われる。(非固定客席の醍醐味)
徐々にストレスフルになってきたのと、普通にお腹が痛かったので途中からしゃがんだり座り込んだりして見ていたが、これがとても面白い。
図らずも先述の二つのレイヤーから離脱したように錯覚できる。
シェイクスピア作品における「道化」ポジションになったような気分だ。
立ちはだかる人々の隙間から役者の顔を捉えたり、役者が床に下りてきたときにはとてつもない臨場感を味わったり、体験の濃度が爆上がりした。
世間レイヤーから解き放たれた開放感で、時折ガンガン頭を振ったり、揺れてみたり、多分超ニヤついてたと思う。
そういった身体感覚が研ぎ澄まされていくにつれ、「自分が気持ち良くなる時間」として上演を楽しむようになり、「自慰的」という僻みひなたの真骨頂ともいえる時空間が爆誕した。
基本的に台詞は全部は追おうとせず、ただ音に身を任せるのみ。
音を浴びに行ってると言っても過言ではないし、ライブのチケ代だと思ってお金払ってる節はある。
じゃあ「ロミオとジュリエット」としては面白かったのかという話。
学級崩壊の作品は「非人間的・概念的・記号的な登場人物」が「マイクやEDMという電子的増幅装置」を通じて「疑似的な有機性・物語性」を獲得する構造だと、個人的には解釈している。
コードや音符が楽器やアンプを通して音楽となっていくような感覚。
それを鑑みると、古典の中でもシェイクスピア作品を選んだのは妥当だと思う。
あれだけ心情や背景を流麗に捲し立てて、異常な熱量で倒錯していく登場人物たちがどこか「非人間的」に見えても仕方ない。
逆にリアリズム的な戯曲の場合、相当大きな変換・転換を施さないと、学級崩壊の方法論に当てはめただけでは瓦解する。
Noismとは全く別のベクトルで「シェイクスピア作品の強度と懐の大きさすげえ」となった。
こういう方法で上演するのか!という「仕掛け」とその場でお客さんと俳優と空間の間に起こる「現象」を大いに楽しんだ。逆に言えば、そもそも狙ってないと思うからほぼいちゃもんに近いが、戯曲の中に深く潜っていくような感覚はなかった。

■私はロミジュリのここが好き。

やっぱりスピード感はシェイクスピア戯曲の中でも随一だと思う。
16歳と14歳という二人の若さも際立つ。
「好き!愛してる!一緒になりたい!」という生への強い想いが逆説的に、死へ猛スピードで近寄ることになるという逆転もシンプルだがワクワクする。
「一目惚れ」というイージーな入口で共感を生みつつも、共感の域を超えた派手な展開でエンターテイメントに昇華する。
勘違いやすれ違いによって右往左往するベタな展開だが、やはり面白い。

「ロミオとジュリエット」を扱う上では、その辺りの
・スピード感
・ドライブ感
・スリル
は欠かせないと思ってしまう。
その上で「両家の対立」や「世間」、「倒錯」などの要素のどこを掘り下げていくかは演出家次第だと思う。

■秒で死ぬ、「ロミオとジュリエット」

手前味噌で恐縮だが、自分なりのロミジュリ解釈を力技で形にしたのが拙作・ヨハクノート003『秒殺・ロミオとジュリエット』だ。

スピード感とドライブ感にステータスを全振りしたような作品。
物語を猛スピードで駆け抜ける5分間を3回ループして、摩耗していく俳優の姿を緩慢な自殺としての生に重ねる、的な解釈です。
(本番のアドレナリンでループするたびに勢いづいていったんですけどね)

全部で15分なのでそんなに長くないし、とばしながら見てもいいと思う。
シェイクスピア没後400年のときにやったメモリアルな作品です。

■まとめ

まとめもくそも、思いついたことをダラダラと書き連ねてるだけですので、特にありません。
別に物申すなんて言ってないですからね。
次シェイクスピア、なにやろうかなぁ。


臼杵遥志(うすきようじ)
1994年5月2日生まれ。福岡県出身。
ヨハクノート代表/演出家/劇作家/俳優/ワークショップファシリテーター。
高校で演劇に出会い、大学進学を機に活動を本格化。2016年、早稲田大学劇団木霊から独立する形でヨハクノートを旗揚げ。大学ではマレビトの会の松田正隆氏に師事し、2017年、同氏が教授を務める立教大学現代心理学部映像身体学科を卒業。<自分・他者・空間>を創作のキーワードに設定しているため、同一作品が会場によって全く異なる演出になることもしばしば。そのためツアー公演では出演者・スタッフとともにああでもない、こうでもないと笑いながら試行錯誤している。近年は子ども向けのワークショップや企業の研修など、<演劇の外で演劇をする>ことに挑戦中。演劇的思考やメソッドを用い、非認知能力向上のためのコンテンツ開発を行っている。

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