老若男女なんて似合わない

「山脇、毎日。」でも何度も触れていますが、この2016年、最も芽生えたのは”同世代意識”でした。「同じ世代なんだから仲良くしたい」と無条件に思ってしまうほど強く感じていて、これはしばらく取れていきそうにないです。

そんな意識とは逆に、他世代とのつながりも、強く求めてしまう自分がいます。例えば、ぼくは電車の中がけっこう好きなのですが、それは「ある場所に移動したい」という同じ目的の人が、世代を問わず混在しているからです。

自分にとって気持ちの良い方を追求するだけならば、つねに同世代と溜まっている方が楽な人は多いと思います。ぼくもそう。でも、公共の空間、さらに電車のような狭い空間の中は、それを許してくれません。

望む人だけと乗車することは叶いませんし、みんながマナーという思いやりでできたルールブックを抱えて、場を調整していく力が求められます。

そんな場所だからこそ、みんながそれぞれできる範囲で、居心地の良さを確保しようとする。それは決して同質の人を周りに据えるやり方ではなくて、とっても現実的な、ある種理想のやり方なんじゃないかなと思うのです。

変な言い方ですが、居心地悪い中でどうやったら居心地良くできるかを考えるのが電車内のような場所の過ごし方である気がしていて、そんな場所は、ずっと、残ってほしいと思うし、そんな場所にいたいと思います。

これからどんどんできていくだろう、新たなスペースたちは、「誰かのために」作られたものであって、だからこそ、老若男女なんて言葉が似合わないのでしょう。

これからどんどん減っていくだろう、古いスペースたちは、「誰のためか」が明確でないと理由で、潰えてしまうのでしょう。

そんな一方方向は、寂しいなあと思うのです。多様性なんて簡単には言いたくないですが、世代の混在が新鮮だと感じてしまう前に、ぼくはもっともっと、混ざり合っていきたいと願います。

山脇、毎日。